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東端城

東端城跡


登城日:(2009.08.29)
所在地: 安城市東端町中縄手、城山稲荷
 
【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
東端城の城址碑 東端城の土塁か  1580年(天正八年)、長田尚勝がこの城を築き、1584(天正十二年)頃、尚勝の弟、永井伝八郎直勝の居城となりました。城の構造も、居館城から郭内城へ移行する時期の代表的な城郭といわれています。
 1615年(元和元年)、直勝が常陸国(茨城県)笠間に転じたため廃城になりました。

◆東端城と城主 永井伝八郎直勝
 東端城は、天正八年(1580)大浜郷にて羽城の指令を勤める。長田久右衛門重元の長子、尚勝が築いた。城の構造は居館城から郭内城へ移り変わる過程にある代表的な城郭であった。蓬左文庫蔵の「東端城絵図」に見る東端城の姿は連郭構造の大規模な造りであったように描かれている。東端城が歴史の表舞台に出るのは尚勝の弟、直勝によってである。直勝は十三歳の時に家康の長男松平信康に仕えたが、天正七年(1579)に信康が自刃すると、大浜へかへり蟄居していた。しかしその後、十八歳の時には家康に仕えるようになり、禄三十貫を賜った。この時姓を長田から永井に改め、永井伝八郎直勝とした。天正十二年(1584)直勝二十二歳の時、初陣として小牧長久手の戦いに出陣した。ここで彼は、敵将池田勝入斎恒興の首を取る大殊勲をたてた。これにより東端村1000石の地を賜り、兄尚勝に代って東端城城主となった。その後関ヶ原の戦でも戦功を上げ、従来の領地に城ヶ入村、高取村を合わせて、4050石さらに上総(かずさ)国、近江(おうみ)で6000石、合計10050石となった。さらに大阪夏の陣では、豊臣秀頼切腹見届けの大役を勤めた。この功績でこれまでの領地を改め、上野(こうずけ)国小幡で10000石、近江で2000石、笠間近在で20000石、合計32000石を領有し常陸(ひたち)国、笠間城の城主となった。この時、東端城を離れ、以後この城は廃城となる。直勝は、その後も業績を上げ元和(げんな)五年(1619)に、常陸国新治(にいばり)郡柿岡、土浦両所にて20000石さらに同八年には、新たに下総(しもふさ)国内で20000石を加え、合計72000石を領し、下総古河城城主となった。その間直勝は江戸にて評定所の奉行を勤めたが、寛永二年(1625)六十三歳で没した。

『東端城跡案内板』より

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資料
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永禄 6 1563 直勝出生
天正 4 1576 松平信康(家康の長男)に仕える
天正 7 1579 松平信康自刃し、大浜で蟄居
天正 8 1580 直勝の兄、尚勝が東端城築城。直勝、家康に仕え、禄30貫
天正12 1584 小牧・長久手の戦にて大殊勲。東端城城主1000石
慶長 5 1600 関ヶ原の戦にて戦功。東端城城主10050石
元和 元 1615 大阪夏の陣にて秀頼切腹見届
元和 3 1617 大阪夏の陣の功績により、常陸国笠間城城主32000石。東端城廃城
元和 5 1619 領地20000石加増。常陸国笠間城城主52000石
元和 8 1622 下総へ移る。下総国古河城城主72000石
寛永 2 1625 63歳で没した

私見
東端城の堀跡か  東端城があったとされる場所は、現在城山稲荷が建っており少し高台となっていました。神社名が刻まれた立派な石碑の側面には城の名が刻まれていて、城址碑としての役割も果たしています。ここは周囲を歩けば土塁跡とわかるものや、堀跡のように感じる場所もあり、かつてここがお城であったことを想像させてくれる場所としてはいいですね。今の状態でしたら、案内板に縄張り図があればもっと楽しくなると思うのですが、惜しいですねぇ。できることなら事前に縄張り図を入手してから訪れたいお城です。
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