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大給城跡登城日:(2009.02.21) 所在地: 豊田市大内町 |
歴史 |
大給城址は、西方眼下に九久平の集落を見下ろす標高204メートルの急峻な山上に築かれている。九久平は足助街道と新城海道との交差点であると同時に、巴川の水運と陸上輸送との中継地でもあるという交通の要衝であった。 城の東西には、尾根づたいに攻めて来る敵の侵入を防ぐために、堀切A・Bを設けている。東側からの進入路を通ると、門や櫓などで防御された虎口(入口)Cを抜け、曲輪2を主郭1へと至る。城内のいたる所には花崗岩の巨石が見られ、主要な部分は石垣で固められている。Fは物見岩と呼ばれ、ここからは尾張の国をはじめ遠く鈴鹿の山々を望むことができる。岩上には一辺数センチメートルの穴が並んでいるが、いつ何のために開けられたかは不明である。D・Eは石垣を駆使して谷に設けられた大規模な取水施設である。主郭1から南に下ったところにある3は城主の館跡と考えれる。 本城は、もと土豪長坂新左衛門の城であったが、岩津(岡崎市)に進出した松平宗家三代の信光が攻略し、三男親忠(松平宗家四代)に与えた。親忠は細川城(岡崎市)とともにこれを次男乗元に譲り、乗元が大給松平氏の初代となった。大給松平二代乗正は永正七年(1510)までに城の大修築を行った。以後、乗勝、親乗、真乗、と続き、天正十八年(1590)六代家乗のとき徳川家康の関東への国変えに伴って上野国(現群馬県)に移り、大給城は廃城となった。 ◆松平乗元の墓 松平乗元は文安三年(1446)に岩津で生れた。父は徳川家の祖先松平氏第四代の松平親忠である。幼名を源四郎、後に左近と言い加賀守に任ぜられた。応仁文明の頃、祖父松平信光が大給城を攻略した時、父親忠の命によってこの城を守り近隣を平定して細川城もおさめた。以来子孫五代ここを居城としたので大給松平と言われ乗元をシソした。 大給松平の子孫は繁栄し主なるものとして三河西尾信州龍岡、豊後府内の藩主などがある。手洗鉢に松平岩見守乗利とあるは、大給五代直乗の次子直次の末流で龍岡藩主である。この廟所は文政天保の頃にできたものであるが菩提寺は岡崎市細川町の松明院である。 『大給城跡案内板』より
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資料 |
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私見 |
大給城は公共交通機関を使って行くにはちょっと不便なところにありますが、幸運にも地元の方にご案内いただける機会を得まして、訪城できることとなりました。車は数台くらいの駐車場スペースが用意されていましたので場所を探さなくてよくなっています。そこから登城道をあがっていくことになります。 登城道は下草もなく、夏場でも気にせず歩けそうな状態です。尾根上に出るとすぐ右手に松平乗元のお墓が置かれていました。花が供えてありましたので大切にされているのですね。手を合わせていざ城へ。 城跡には東からのアプローチとなります。城域すぐに案内板があり、縄張り図も設置されていますのでイメージしやすくなっています。とはいえ、かなり構造が複雑ですので、あらかじめ印刷したものを持っていかれたほうがいいですね。 導入が長くなりましたが、大給城は大きな岩が無造作と言えるほどゴロゴロしています。またそれら巨岩とは対照的に小さな石で積まれた石垣も印象的です。案内板前にある堀切のまわりにも大きな岩が転がっており、石切場を彷彿とさせてくれます。堀切脇を過ぎ、左へさらに右へと折れると二郭の虎口に出ます。石垣を有する土塁で虎口を形成していますが改修されているんですね。微妙ですが食い違いのようです。 土塁は郭の東側と南側を巡らせてあり、西に主郭へと続くルートが用意されています。そして主郭へ。東西に大きく伸びた形状ですが、石垣で半分に区画されているようです。主郭の西側は物見岩と呼ばれる巨石があり、ここからは遠くまで見渡せるようになっていますね。風がよく通るのかこの日は強風でやけに寒かったことを記憶しています。 次に主郭北側の一段さがったところを東に進み、水の手へと向かいます。大きく視界が開けた谷部を石塁が積まれ、水門が作られています。また井戸のような窪みがあり、貯水設備であったと見受けられます。かなり大規模な取水施設ですが、往時はどれくらい水があったのでしょうね。山城には水の手が必須ですが、大給城はかなりこの点を重視していたのでしょうか。 最後に南側にある方形郭である居館跡を確認しました。ここはすっかり手入れされた梅園ですので、季節があえばすばらしい景色が拝めそうです。西側にも登城道がありますので普段はこちらを使って手入れをしに来られているのでしょう。そのまま西へと降りていけば大きな堀切も見られますので行ってみてください。
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