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勝鬘寺登城日:(2009.08.29) 所在地: 岡崎市針崎町、勝鬘寺 |
歴史 |
勝鬘寺は、いわゆる真宗三河三カ寺の一つ。永禄六年(1563)から翌年にかけておきた三河一向一揆の際、一揆方の拠点の一つとなった。蜂屋半ノ丞ら百余騎が境内にたてこもり、ここから小豆坂や上和田方面へしばしば討って出て激しく闘った。 ◆岡崎観光文化百選 三河における最初の真宗道場として、1258年創建されました。当時は赤渋にありましたが、その後水害の難を避けるため現在地に移りました。 1563年、三河一向一揆の嵐が襲い、肉親や主従が敵味方に分かれて戦いました。当寺には蜂屋半之丞らが立てこもり、数か月に渡って家康に抵抗しました。この戦いで討ち死にした渡辺高綱の墓があります。 ◆渡辺高綱小伝 高綱は占部の出身にして槍の名手半蔵守綱の父なり、永禄一向一揆の門徒方の有将として高名なり。 永禄七年(1564)一月上和田の戦いで内藤正成の矢にあたり負傷し、子息真綱と共に当寺まで逃れるも針崎の戦いに破れ、一月十七日当地において終に討死す。 『勝鬘寺案内板』より
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資料 |
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私見 |
岡崎の市街地の中にあり、脇を走る幹線道路の渋滞を我慢しながらたどり着いた勝鬘寺です。ここが三河一向一揆の舞台の一つであったあの勝鬘寺かと思ってはみたもののなかなかイメージしにくいものはありますね。とはいえ渡辺高綱のお墓や案内板もあることですので、「そうなんだ」ということでお墓に手を合わせて、納得することにしました。 お寺は周辺より10メートルほどの高所にあり、何もなかったら周囲を見渡せるようにはなっていたのがわかります。一揆後から今日に至るまでこの高所がそのまま寺となっていただけなのかな?とも思いましたが、それは別の話なのでおいておきます。
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