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山田重忠館跡登城日:(2005.04.13) 所在地: 名古屋市北区山田町四丁目、山田幼稚園 |
歴史 |
建久三年(1192)鎌倉に幕府を開いた源頼朝は、諸国に守護・地頭を置いた。このとき山田重忠は山田荘の地頭となる。
承久三年(1221)後鳥羽上皇は、朝廷の権力をとりもどすために執権北条義時を討つ命を全国に出した。この命令に大和・美濃・尾張など14ヶ国の武士が応じて立ちあがった。これが世に言う承久の乱である。 この時、山田重忠は上皇方につき一族郎党を率いて木曽川の墨股を守った。しかし10万余騎の幕府軍におされて、宇治川まで敗走したが、ここでも敗れ重忠は自害し、子重継は捕えられて殺された。
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資料 |
私見 |
山田重忠館跡は、名鉄瀬戸線「大曽根」駅から歩いて15分ほどのところにある山田幼稚園の前に碑があるのみです。幼稚園の園内にも墓石なのか慰霊碑なのかがあるみたいでしたが、残念ながら確認はできませんでした。この日は桜が美しく、どちらかと言えば桜を撮影しているような写真ですね。(^^;
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