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金沢柵跡
登城日:(2003.06.27)
所在地: 横手市金沢中野字権五郎塚
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
中世山城の装いももつ金沢柵跡  奥羽2州の支配者・清原一族の内紛は、源義家の介入により後三年の役に発展しました。沼の柵で勝利を得た清原家衝は難攻不落と言われたここ金沢の柵に居城を移し戦いましたが、義家・清衝軍の水攻め、兵糧攻めにより1087年11月14日ついに落城。勝利した清原清衝は後に藤原を名のり、奥州藤原3代平泉文化の礎となりました。

『金沢柵跡案内板』より

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資料
 

私見
一番広大な本丸跡 北の丸前にある土塁、かな  東北では「柵」と呼ばれる城館跡があります。まぁ古代の小規模な城でいいと思います。が、この金沢柵跡である金沢公園は結構大きな規模の城跡でした。駐車場を中心に本丸、北の丸、西の丸などの郭が展開しており、まるで中世山城を感じさせてくれます。それもそのはず、後三年の役のずっと後、長禄二年(1458)には南部氏の家臣金沢右京亮が入り、その後は小野寺氏の家臣金沢権十郎が、さらに佐竹の東将監・梶原美濃が居城したんですからねぇ。
 なお、この山には無数の塹壕跡や柵木があったようです。かなりの堅城だったのでしょうね。現在は訪れる人もめったにないような、ひっそりとした一種時間が止まっているかのような錯覚を覚える空間となっていました。
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