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弘前城

登城日:(2003.06.28)
所在地: 弘前市下白銀町、弘前城公園
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
土塁に守られている三の丸追手門 南内門の外にかかる杉の大橋  弘前城は、津軽藩主代々の居城で慶長十六年(1611)に二代藩主津軽信枚(のぶひら)にって築かれた城である。
 面積約四十九万平方メートルを有し、本丸、二の丸、三の丸、四の丸、北の郭、西の郭の六郭によりなり三重の濠と土塁でめぐらされた城郭である。
 現在城跡には、天守閣をはじめ隅櫓三棟、城門五棟の建造物が残されており、いずれも重要文化財に指定されている。

 重要文化財 三の丸追手門
 
建築年代 慶長十六年(1611)
  二代藩主 津軽信枚
指定年月日 昭和十二年七月二十九日
棟高 十一、七メートル

 弘前城には築城当初十棟の城門があったとされているが、現在二の丸南門、二の丸東門、三の丸追手門、三の丸東門、四の丸北門(亀甲門)の五棟が残されている。
 弘前城の城門は周辺を土塁で築き、内外に枡形を設けた二層の櫓門であるが、門の前面に特別の門(高麗門)などを設けていないことや、一層目の屋根を特に高く配し全体を簡素な素木造りとしていることなどから、全国の城門の中でも古形式の櫓門として注目されている。
南内門です。 石垣との調和が見事な現存天守です。
 弘前城天守
 
建築年代 文化七年(1810)
  九代藩主 津軽寧親
指定年月日 昭和十二年七月二十九日
棟高 十六メートル

 弘前城は津軽を統一した津軽為信が計画し、二代藩主信枚が慶長十六年(1611)に完成させた。当初の天守は五層で本丸西南隅に構築されていたが、築城から十六年後の寛永四年(1627)に落雷により焼失した。
 現在の天守は、江戸時代末期の文化七年(1810)九代藩主寧親により、本丸辰巳櫓を解体新造したものである。
 建築年代は新しいが、濠側の東、南両面には鉄扉窓をつけず、矢狭間だけとし、また一、二層にはその中央に張り出しをつけ切妻破風、石落しを設けるなど古形式になっている。
 江戸時代に建築され、現存する天守としては東北地方唯一のものであり、小規模ではあるが、全国の城郭天守の中でも代表的なものである。

『弘前城案内板』より

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資料
 

私見
濠がやたら広いのも印象的でした。 寛永四年(1627)に焼失したかつての天守、未申櫓跡  北東北攻め最大の目的地、弘前城へとやってきました。津軽為信の意思を継いだ、二代目藩主津軽信枚が完成させた、東北唯一の現存天守です。
 訪れる前は「こぶりな天守」というイメージしかなかったのですが、いやはやなんとも見事なものですね。何がって?城域の広大さ、三重になった濠の見事さ、そして天守以外にも隅櫓三棟、城門五棟と数多くの重要文化財の遺構。なにより広大な面積に圧倒されまくりでした。十万石大名が持てる規模じゃないですよねぇ。もともとは五層の天守が本丸西南隅にあったというのですから、今以上の威容を誇っていたのでしょうね。
 さて、この弘前城は本丸部分から有料となります。別に全然かまわないのですが、本丸に入って驚いたのはごみ一つ落ちてないってことなんです。また、美観を損ねる為なのか、ごみ箱も設置されていません。大切に維持されているんだろうなぁということがよくわかる一コマですね。
 また、本丸跡内には天守以外にも隅櫓の跡や建物跡が数多く案内板により説明してくれています。しかし唯一なぞだったのは西側に設置された、望遠鏡です。100円をいれて覗き込む、よく展望台にあるタイプのやつです。何がなぞかって?それは100円をいれてみればわかります。何を見るためのものなのかなぁって。濠の水面や、松林がやたらアップになってて私には何を覗きたいのかさっぱりわかりませんでした(笑)。
 この日はあいにくの天候でもひとつだったのですが、今度は桜の季節に訪れてみたいですね。ってかなり遠いんでいつのことになるやら・・ですが。
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