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縦渕城跡


登城日:(2006.08.13)
所在地:松山市北井門2丁目
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
縦渕城は小さな神社境内に案内板と碑が建てられている。  この城は、小野川(縦渕川)の南、高さ8メートル、東西47メートル、南北86メートルの丘の上にあったが、明治21(1888)年、土佐街道(今の国道33号線)がつくられたとき、取り崩された。このとき切り石垣が出てきたという。
 伊予の豪族河野氏は、源氏と結んで勢力を伸ばしたが、承久の変(1221)により没落した。このとき、鎌倉の味方をした庶子の通久は、功により久米郡石井郷をもらって家督を継ぎ、縦渕城を築いた。その後、同母弟の通継を経て、河野通有が跡を継いだ。
 通有は、弘安の役(1281)において「河野の後ろ築地」と呼ばれる勇気や蒙古の軍船に乗り込む等の勇猛振りで、全国に名を轟かせて勢力を回復した。その後、通盛の代になって、湯築城を築き、伊予平野の中心地に出て勢力を伸ばし、国司に任じられるようになった。

『縦渕城跡案内板』より

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資料
 

私見
縦渕城は小さな神社境内に案内板と碑が建てられている。  松山市の中心街を南へ国道33号線を降りていきます。松山道との交差箇所の手前にある内川が横切る直前で右へ細い道路に入っていきます。内川を越え、すぐに左手に小さな神社がありますがここに縦渕城の城址碑が置かれていました。
 まったくその歴史や名前さえも知りませんでしたが一応行くだけ行っておこうという軽いノリでしたが、碑や案内板があって驚きでした。案内板の文章を見ていますとかなり削られてしまったようですね。ここは駐車スペースもありませんのでさっさと写真だけ撮って移動しないといけないのが難点です。
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