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宇和島城登城日:(2006.08.13) 所在地: 宇和島市丸之内1 |
歴史 |
戦国時代高串道免城主の家藤監物が、天文十五年(1546)板島丸串城に入ったというのが、板島丸串城の記録に現れた始めである。 その後、天正三年(1575)西園寺宣久の居城となったが、同十三年(1585)には伊予の国が小早川隆景の所領となり持田右京が城代となった。その後、同十五年(1587)宇和郡は戸田勝隆の所領となり戸田与左衛門が城代となった。 文禄四年(1595)藤堂高虎が宇和郡七万石に封じられ、その本城として慶長元年(1596)築城工事を起こし、城堀を掘り、石垣を築いて、天守閣以下大小数十の矢倉を構え、同六年(1601)ごろまでかかって厳然たる城郭を築きあげた。 慶長十三年(1608)高虎が今治に転封となり富田信高が入城したが、同十八年(1613)に改易となったので、約1年間幕府の直轄地となり、高虎が預かり、藤堂良勝を城代とした。 慶長十九年(1614)十二月、仙台藩主伊達政宗の長子秀宗が宇和郡十万石に封ぜられ、翌元和元年(1615)三月に入城の後宇和島城と改めた。 それ以後、代々伊達氏の居城となり、二代宗利のとき寛文四年(1664)天守閣以下城郭全部の大修理を行い、同十一年(1671)に至り完成した。 天守閣は国の重要文化財に、また城跡は史跡に指定されている。別称鶴島城ともいう。 ◆宇和島城の井戸 この井戸は、現在の城山に残る三つの井戸のうち、最も重要視せられたものである。ここを井戸丸といい、井戸丸御門、井戸丸矢倉などがあって、有事の時のため、厳重に管理せられていたと推量せられる。井戸の直径2.4メートル、周囲8.5メートル、深さ約11メートルである。ここは城山の北側の谷の中腹、三の丸から登り道に当たり、数少ない城山の遺構の一つである。 『宇和島城跡案内板』より
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資料 |
私見 |
現存十二天守のうちの1つ宇和島城にようやくやってくることができました。先に樺崎台場に行ってきたのですが、そこから宇和島城にたどり着くのに少し迷ってしまいました。桑折氏武家長屋門があるところから登城できる(北登山口)のですが、脇に有料駐車城が完備されています。この長屋門は第二次大戦後に移築したものだそうで、間口が35メートルもあったそうです。ここからあがっていく薄暗がりとなった登城道の石段が少し怖いですね。 やがて井戸丸につきますが、そのまま本丸を目指します。二の丸に到着するまでに脇にそびえる石垣が言葉にしがたいプレッシャーを感じます。上から狙われたらひとたまりもありません。しかし階段途中で振り返ると宇和島城の天守が少しずつ見えてきますので何度となく振り返りながら石段を登っていきました。(^-^ 二の丸から本丸へ、ちょうど天守の正面を発掘調査しているようで、ブルーシートがかけられています。何の調査をしているか聞くのを忘れてしまってましたが、念願の天守に大感動です。 独立式の三重三階の宇和島城天守は、白壁の総塗込め造りとなっています。現在残っているのは寛文11年(1671)に完成したものですので、平和の時代を現しているのですね。 誰もいない本丸に佇んでいるとふと今どこにいるのか分からないような錯覚を覚えます。私にとって最後の現存天守は穏やかに、そして優雅に迎えてくれたのでした。
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