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勝山城跡 登城日:(1998.11.21) 所在地: 勝山市 |
歴史 |
勝山城の名が歴史に登場するのは、天正8年(1580)柴田勝家の一族、柴田勝安が、加賀の一向一揆を討伐し袋田村に城を築き、村岡山の別名勝山にちなみ、勝山城と名付けたのが最初である。
その後天正11年には、丹羽長秀の老臣成田弥左衛門重政、慶長5年(1600)には、結城秀康の家臣林長門定正、寛永元年(1624)には、結城秀康の六男直基、同12年には七男直良とそれぞれ入封するが、いつの時点まで城が存在していたかは不明である。 正保元年(1644)勝山は、福井藩領となったが、江戸幕府への上知石高を支配する為代官が派遣され、旧勝山城の池に陣屋が建てられた。 元禄4年(1691)小笠原貞信が美濃国高須から2万2777石をもって勝山に入り、幕府代官の残した陣屋跡に居を構えた。貞信は幕府に築城を願出て宝永5年(1708)ようやく許された。設計者は江戸の軍学者、山鹿藤介であった。築城工事は、多額の出費と人夫の徴発に苦しんで容易に進まず、加えて文政5年(1822)城内から出火して建物のほとんどを焼失し、勝山城は未完成のまま廃藩を迎え、廃城となった。 廃城後、城地は、町役場、成器男子小学校、西方寺、三の丸製糸場などに判明され、明治22年(1889)本丸跡に最後の城主小笠原長守の筆による「勝山城址之碑」が立てられた。 現在は勝山市役所、市民会館、教育福祉会館が建ち並び、中央公園も造成されている。最後まで残っていた天守閣跡、石垣内堀の一部が取り壊されたのは昭和42年市民会館を建てた時である。 その後勝山市民の間に勝山城再建の願いが年毎に高まり、ここ幸いにも適地を得て、めでたく天守閣の建設を果たすことができた。 『勝山城案内』より
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資料 |
私見 |
よくぞここまで立派なものをつくったねぇ、えらいぞ勝山市市民の皆さんって感じでしょうか。とにかくでかすぎるぞ(笑)。中は復元天守にはお約束の博物館でした。しかし、せっかくの3連休の2日目になぜ休館日なんだ!?わけわからんぞ。勝山市! 最後に、なぜか周りの溝を流れる水がやけに硫黄臭かった。温泉でもあるのかとも思ったが、地図を見てもそんな様子はまったくない。うぅむ・・なんかよく分からんぞ。勝山市!
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