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旭城跡登城日:(2007.10.11) 所在地: 豊前市千束、千束八幡神社など |
歴史 |
慶応二年八月(1866)、小倉小笠原藩(15万石)は、長州軍との戦に敗れ、自らの手で逃れた。分家の千束一万石の藩主貞正は、同年十一月、領内安雲の光林寺に入り、明治二年塔田原に館の建設を始め翌三年十月に完成し、ここに移り、旭城と名付けた。現存の城跡石垣は、その当時、千塚原古墳の石を使用したものである。明治四年の廃藩置県により、わずか一年ほどの千束藩の館であった。明治十三年、この跡地に千束神社を建立、更に大正五年、塔田の御霊八幡神社と野田の八幡神社を合祀して、千束八幡神社と改称して現在に至る。祭神は八幡大神、仁徳天皇を始め六祭神をお祀りしている。
千束八幡神社の敷地とその周辺が城跡です。江戸時代には現在の豊前市と新吉富村の一部は新田藩と呼ばれる小倉藩小笠原氏の支藩でありました。 藩主の居館は、領内になく小倉城下の篠崎にありましたので、篠崎藩とも呼ばれていました。 慶応二年(1866)小倉藩と長州藩との戦いで、小倉藩、篠崎邸ともに焼け落ちたため、当主の小笠原貞正は、小倉藩主小笠原豊千代丸とともに田川郡香春に逃れました。 その後貞正は領内の当郡に来て安雲(新吉富村)の光林寺に入り、明治二年(1869)、塔田原と呼ばれていたこの地に居館を構えることにしました。ここにはかつて多くの古墳があり、その古墳の石を使って石垣を築き、明治三年(1870)に完成して、旭城と名付けられました。 しかし時代は明治の新政府によって激動の時を迎え、明治四年(1871)の廃藩置県さらに廃城令が出される中、築城間もない旭城はその使命を終えます。短命であったこと、そして全国で最後に築かれた城と言う意味で、歴史にその名を残した城でもあります。 現在も城跡である千束八幡神社の周辺には多くの石垣が残されており、当時の名残をとどめています。 『旭城跡案内板』より
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資料 |
私見 |
旭城は、豊前市内を東西に走る国道10号線「千束」信号を南に400メートル程下った千束八幡神社と千束小学校の敷地内にありました。同神社に残る高さ2メートルほどの石垣が当時の遺構とされています。 築城後すぐにその役割を終えた旭城でしたが、今の状態ならば今後も長きにわたって神社の一部として残り続けてくれそうだと感じます。訪問したこの日は平日だったので隣接する小学校からは元気な児童の声が鳴り響いていました。旭城跡がふと寂しく感じたのはおそらくそのせいでしょうね。
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