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御所ヶ谷神籠石登城日:(2007.10.11) 所在地: 行橋市大字津積 |
歴史 | ![]() 百済救援のために朝鮮半島に派兵したわが国は663年、白村江で唐と新羅の連合軍に敗退します。敗戦後、唐、新羅軍の侵攻に備え防人と烽(のろし)を配置するとともに大野城、基肄城、金田城など山城を築き国防体制を強化しました。神籠石タイプの山城もこの戦いの前後に国土防衛のために築かれたと考えられます。 ![]() 西日本の古代山城のなかで御所ヶ谷神籠石は大規模な石塁や土塁に象徴されるように、城としての完成度が高く当時、中央政権が京都(みやこ)平野を九州北東部の防衛の要として重視したことを示しています。 『御所ヶ谷神籠石案内板』より
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資料 |
私見 | ![]() 当サイトでは初めての登場となる『神籠石』ですので、少し説明を入れさせていただきますと、『神籠石』とは北部九州に分布している古代の遺跡のことを指します。山の斜面をぐるりと取巻く切石の列石が数キロメートルにもわたり巡らされ、その上に土塁が作られています。また水門と呼ばれる排水機構も用意されています。 『神籠石』が果たして城なのかどうかは、明治・大正期に議論されていたのですが、近年は朝鮮式山城であるとする見方が主なようです。 ![]() いきなり一番の見所である中門跡を見に行きました。綺麗に同サイズの石が積み上げられている様は、押したら崩れてしまうんじゃないかと心配してしまうほどの脆さが一番に、そしてなんとも言えない重圧感がそのあとにやってきました。二段となった石塁の下部には排水溝がつくられています。折りしも前日降った雨が勢いよく流れ出ているのでしょうか、水門として1000年以上経った今もその機能を果たさんとしているように感じます。ほんとはあまり時間がなかったのですが、しばらくここから離れられなくなっていました。 そのあとは足早にハイキングコースを走って移動します。おかげで汗だく(笑)。どうも神籠石の列石はそのほとんどが土中に埋まってしまっているようですね。それでも東門附近と、第二東門手前には発掘されて掘り出された列石遺構が美しく整然と並べられているのが確認できました。この山城が機能していた頃はその内部はどんな様子だったのでしょうか。またどのように城は機能していたのでしょうか。神籠石を見るだけでは全然想像ができませんでした。もっと他にも足を運んだり、又勉強しないといけないようですね。
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