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門司城

門司城跡


登城日:(2007.10.11)
所在地: 北九州市門司区大字門司
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
関門橋を見下ろす位置にある門司城跡  門司城(門司関山城、亀城)は、最初平知盛が源氏との合戦にそなえて、長門国目代紀井通資に築城させた、といい伝えられている。
 寛元二年(1244)、下総前司親房が平家残党鎮圧の下知奉行として、鎌倉幕府より豊前国代官職に任ぜられて下向。
 のち門司六ヶ郷と筑前国香椎院内などを拝領した。親房の子孫は地名により門司氏を称し、門司城を本城に領内に足立・吉志・若王子・三角山・全山の五支城を構えてそれぞれ一族が配置された。門司氏はその後およそ三百五十年にわたって北九州の地に続いた。
門司城跡に残る石垣跡  その間、南北朝時代には門司氏も両派に分かれ、当城には北朝武家方の吉志系門司左近将監親尚が拠り、一方南頼宮方の伊川系門司若狭守親頼は猿喰城に籠り、骨肉の争いもあった。
 室町時代末になると、門司半島は豊後大友氏と大内氏、大内氏滅亡後はかわって毛利氏が争奪するところとなり当城はその渦中におかれた。ことに大友・毛利両氏による永禄の門司城合戦は壮絶をきわめ、ちなみに『後太平記』には、「昔、源平両家比処にて軍せしも、時こそ替れ是にはよも勝らし」とその戦況を記している。
 その後の門司城は、城主も入れ替わりながら続いたが、細川忠興の豊前入国後の元和元年(1615)、一国一城の令により、およそ四百年におよぶその歴史をとじた。

『門司城跡案内板』より

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資料
 

私見
明治期に築造された砲台倉庫 明治期に築造された砲台の通路  門司城は、関門橋が門司へ渡ってすぐトンネルとなる古城山山頂部上に位置していた山城です。和布刈公園内をくねくねとうねる一方通行の道を上がっていくと広いロータリーに出ます。ここから左手に門司城への登城道が続いており、歩いていくことになります。約10分ほどの斜面を右廻りにあがっていくと山頂まで楽にあがっていけますが、北側には明治期に築造された砲台が残されています。レンガ造りの倉庫とそれを取巻く通路が異様な雰囲気をかもし出しています。おそらくここも門司城の城域だったことでしょうね。
 さて、ようやく山頂です。完全に崩れていますが石垣跡も見られます。また砲台跡の遺構がここにも残っています。こうやって異なる時代の遺構が混在しているのをどうとらえるか・・中世山城ファンならば明治期の砲台跡は邪魔なものなのでしょうか。私も幕末台場ならば守備範囲なのですが、ここまでは範囲外です(^^;;。もっとも邪魔とまでは言いませんが・・かなり想像をたくましくしないといけなくはなりますね。
 門司城跡の碑が建つ地点からは関門橋が見渡せ、海と空、そして対岸部の景色と実に見事に融合している景観でした。これだけでも来た甲斐があったと思えますよ。
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