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名島城跡登城日:(2007.10.15) 所在地: 福岡市東区名島1丁目、名島神社 |
歴史 |
天正十五年(1587)九州平定を終えた豊臣秀吉は、筑前国および筑後、肥前のうち四郡を小早川隆景に与えた。隆景は中国地方の雄、毛利氏の一族で、一族の中でも文武に秀でた智将と言われ、そのため秀吉は九州統治に隆景の智と毛利氏の武とを考えての大名配置を行ったとされている。隆景は「海城」を築くのが得意であったため、立花城の出城が置かれていたこの名島に築城した。この城は、北、西、南を海に面し、天守、本丸、二の丸、三の丸、南丸で構成され、城地全体に濠をめぐらすなど、乱世の気風を示している。乱世のため秀吉自ら築城に加勢し、短期間で完成したと言われている。 慶長五年(1600)関ヶ原陣の戦功により黒田長政が筑前国主となり、この城に入ったが、城地が狭く、城下町が作れないなどのため、福崎に福岡城を築城した。 このとき名島城の石垣、櫓などを壊してその建築資材にあてたため、名島城は廃城と化したが、地形からは城跡らしい景観をうかがうことができる。 ◆名島城跡付名島神社 名島城はもと大友の根拠地で、立花城の出城であった。天正十五年(1587)豊臣秀吉は島津征伐の後、小早川隆景を筑前国主に封じ、この城を増強するとともに「御座所」を設けさせ、何か事がおこった場合に備えるとともに、九州監察の中心とした。文禄の役の折に秀吉は肥前名護屋への西下の途中、淀君らとこの城に立寄って宿泊をしている。 この城は関ヶ原合戦後、慶長五年(1600)黒田長政が筑前国主となり、やがて福崎の地に新しく福岡城を築いたので、廃城となったが、城跡らしさがまだ残っている。 山腹の名島神社は宗像三女神を祭神とし、元来神宮が峰に祀られていたのを隆景が築城する時、現在地に移したものである。 なお、神社の本地仏である弁財天は、この地宗栄寺に移されている。 ◆名島門 この門は、天正十五年(1587)小早川隆景が多々良川口の名島の陵端に築いた名島城の脇門で、慶長年間(1596〜1614)黒田長政が居城を名島城から福岡城に移すとき、黒田24騎の一人である林掃部にさげ渡され、邸宅の門として使用されていたもので、「名島ひけ」と呼ばれた名島城の数少ない遺構の一つです。 明治の中ごろ、長崎に移築されそうになったのを、当時の代議士平岡浩太郎氏によって買い戻され、天神の自宅の門として使用されていましたが、戦後富士ビルの建設に伴い、平岡浩氏(浩太郎氏の孫)によって現在地に移されたものです。 『名島城跡案内板』より
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資料 |
私見 |
福岡城内の現在復元工事が進められている下の橋大手門そばにある名島門。なんかそこに”置かれた”感じがするのは私の気のせいだけじゃないですよね。 海に守られた堅牢な名島城は、小早川隆景が居城していた頃は非常に重要な役割を期待されていたんですね。現在は名島神社が建っていますので迷うことなくたどりつけるでしょう。また麓に駐車場もありますので安心して訪城できるのもいいですね。しかし残念ながら本丸跡は立ち入りできなくなっています。往時をしのぶというところまではいきませんし、かなり地形も変わってしまっていますが、石碑が建つ前に立ち、あなたは何を思うのでしょうか。海を眺めながら・・。 実はこの時急激な足の痛みで満足に見て回れませんでした(^^;。城のめぐり過ぎにはご注意を。
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