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二本松城跡 登城日:(2003.09.21) 所在地: 二本松市郭内4丁目 |
歴史 |
二本松城は、室町時代中期に奥州探題を命じられた畠山満泰が築造し、以後畠山氏歴代の居城として、140年余り続きました。その後天正十四年(1586)伊達正宗の南奥制覇のために落城しました。 豊臣時代になると二本松城は、会津領主となった蒲生氏郷の重要な支城として、中通り(仙道)警備の任を与えられました。二本松城に石垣が積まれ、近世城郭として機能し始めたのはこのころだと推定されます。 その後、徳川時代初期も会津領として、上杉氏・蒲生氏・加藤氏らの支配下にありました。とくに、加藤氏支配時代には本丸を拡張したことが石垣解体調査で確認されました。 二本松藩が誕生した寛永二十年(1643)、初代藩主丹羽光重が十万七百石で入城し、幕末まで丹羽氏10代の居城として、220有余年続きました。戊辰戦争に際し、西軍との徹底抗戦で城内・家中屋敷のすべてを焼失し、慶応四年(1868)7月29日に落城しました。 ◆二本松少年隊 慶応四年(1868)七月戊辰戦争の最中、二本松藩大半の兵力が西軍を迎え撃つべく出陣し、城内・城下は空虚同然であった。この緊迫した状況の下、少年たちの出陣嘆願の熱意に、藩主は止むなく出陣許可を与え、十三歳から十七歳までの少年六十二名が出陣、七月二十九日、城内への要衝・大壇口では隊長木村銃太郎率いる少年二十五名が果敢に戦ったが、正午ごろ二本松城は炎上し落城した。 この二本松少年群像は、大義のため戦う隊長及び少年隊士と、我が子の出陣服に藩主丹羽氏の家紋・直違紋(すじかいもん)の肩印を万感迫る思いで縫い付ける母の像を表したものである。 なお、この地は、「千人溜(せんにんだめ)」といい、藩兵が集合する場所であり、少年隊士もここからそれぞれの守備地に出陣した。 ◆箕輪門 箕輪門は二本松城=霞ヶ城の正門にあたり、江戸初期城主丹羽光重の建造である。 城下箕輪村山中にあった樫の大木を主材としたのでこの名がついた。 聳え立つ石垣と累々たる城壁城門は十万石大名の威容を示していた。 戊辰戦争によって灰燼と帰したが再建の声高まり、年余の歳月と二億年の費を投じて昭和五十七年八月に完成をみた。 ◆本丸下南面大石垣 二本松城に築かれた、最も古い石垣のひとつです。築石は野面石(自然石)と荒割石が用いられ、その積み方は古式の『穴太積み』と呼ばれる特徴的な石のデザイン・テクニックです。 大小の石垣をレンガをねかせるように横積みし、数石しか”横目地”の通らない、いわゆる「布積み崩し」の積み方です。 勾配は、直線的で緩やかな「ノリ(法)」を主体に構築されています。天端付近は積み直された形跡があり、本来はさらに数段高い石垣であったと考えられています。 二本松城が会津領の支城となった慶長初期頃、蒲生氏郷に抱えられた城郭石積み技術者集団「穴太衆」によって築かれた石垣です。 石垣規模:「幅」現天端部:約15m 基底部:約21m 「高さ」約13m 「ノリ長」約17m 「勾配」約8分4厘(約50度) 『二本松城跡案内板』より
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資料 |
◆二本松城主・城代等の変遷
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私見 |
JR東北本線「二本松」駅を降りた時には小雨が降っていました。城跡の城山まで約2キロ。時間短縮のためにはやはりタクシーを使うより他に手はなさそうです。でもなんとかワンメータで城跡前駐車場に到着、そこからは傘をさしての登城です。 霞ヶ城址碑と有名な少年兵の像を写真におさめ、箕輪門をくぐります。ここの石垣と門だけで終わり?と思ってしまいましたが、実はここから先が長いんです。山の斜面に築かれた城域は奥へと進むごとにだんだん傾斜をあがっていくことになります。なかなか見事な城割りだなぁと汗をふきつつ進みます。 現在は菊のイベントの準備をしていましたが、ここ二本松は菊が有名なんですね。ま、それはともかく遊歩道を進むと山の斜面を巧みに利用したつくりが見て取れます。自然のものなのかもしれませんが、変化に富んだ山の隆起も二本松の魅力の一つかもしれません。 7〜8分くらいでしょうか、本丸下の大石垣前に出ました。草がびっしりと石垣の間からはえてきてますのでもっと秋が深まった季節だと見ごたえがあるのかもしれませんね。 そのあとで本丸跡、そして櫓台にもあがってみたのですが、風が強くて落ちそうでした。広大な敷地面積を持つ二本松城ですが、なんか中途半端な感覚を抱いたまま駅へと戻ったのですが、なんなのでしょうねぇ。復原が中途半端なのかなぁ・・(関係者の方すいません。)力が入ったところ、昔のままのところがばらばらでうまく融合していないようだなと感じました。
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