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白河城跡
登城日:(2003.09.21)
所在地: 白河市字藤沢十八番地
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
白河城址碑  白川城は、白河市街の東方、阿武隈川の川筋を南から一望できる丘陵につくられました。御本城山(館山)と呼ばれる山頂の平坦部は空濠と土塁で守られた白川城の中心部にあたり、この周辺に防御のためにつくられたたくさんの平坦地や土塁がひろがっています。
 源頼朝による奥州合戦の結果、白川庄の地頭となった結城白川氏は、この城を本拠地として北関東から奥州にかけて活躍しました。特に、南北朝時代には宗広・親光父子が南朝(吉野方)の中心的存在として奥州軍を率いて京都周辺まで二度も遠征し、北朝方の足利尊氏軍と戦いました。
 江戸時代になって、内山重濃(しげたね)が宗広・親光父子の業績を伝えるために、白河城主松平定信の撰んだ「感忠銘」の三文字と、当時の白河藩最高の学者であった広瀬典の文章を城跡の北東部分に断崖に彫ったものが感忠銘碑です。

『白河城跡案内板』より

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資料
 

私見
白河城本丸跡  JR「白河」駅から約2キロほど離れた場所にある白河城へはタクシーを使いました。「白河城跡まで。」「え、そこでしょ?」と駅前に建つ小峰城を指差す運転手をみても、白河城は認知度が低いようです。ここはどっちかというと白河関がメインなようですね。
 さて、城跡は人里離れた山中にありました。大きな城址碑の横の階段を上がると広大な本丸跡が広がります。資料によると90メートルx50メートルくらいだとか。本丸奥にはさらに一段高くなっているところがあるくらいで、これといって特筆すべきところはありません。本丸のほかにも削平地があり、郭があるようでした。
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