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明知城跡登城日:(2007.05.03) 所在地: 恵那市明智町 |
歴史 |
宝治元年(1247)源頼朝の重臣、加藤景廉の孫である明知遠山氏の始祖、景重の築城による遠山氏累代の居城であった。天険の地形を巧みに利用した山城で、土盛砦として保壘数大小二十三ケ所を備え、原型のまま残されているのは日本でも数少ない山城として県の指定文化財となっている。 天正二年(1574)春、武田勝頼二万の大軍を以って、東濃の諸域を攻略、三河、尾張、遠江、駿河への拠点明知城を目指す。城主遠山一行が叔父利景とともに急を織田信長に報じ兵五百とともに之を護る。 信長、事の重大さを思い明知城を授けんと、子、信忠とともに兵三万を率い明知城の西方鶴岡山に布陣するも、武田の将山県三郎兵衛昌景千騎を以って信長の退路を断つ。信長山岳戦の不利を思い、動かずやがて兵を引く。 援軍を失った明知城は、落城した。 『明知城跡案内板』より
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資料 |
私見 |
明知城を訪れた日はちょうど祭りか何かイベントが開催されており、陣屋跡一帯はとても入り込めなさそうな雰囲気でした。仕方なく搦め手に廻りこんでの登城となりました。 駐車スペースも案内板もありますのでここからだとあまり比高差なく本丸までいけるようですね。北砦や東砦の脇を通り、東丸、そして二ノ丸へ。なんだか地形が複雑だなぁと思いながら、それでも空堀があちこちにあるのが面白いですね。私はやりませんが、縄張り図を書くのが大変そうです(^^;。 訪れたのが5月でしたがそこそこ下草が伸びていますので少し見づらくなっているのですが、それでも二ノ丸や本丸では「あれ?」と感じてしまいました。土塁がないんですねぇ。要らないんでしょうか。 本丸の一段下を腰郭状に伸びる三の丸を過ぎ、細い通路を大手門方面へと進みます。ここには門跡を示す巨大な石が転がっていました。このあたりから地形が平坦になってきています。そしてその先には陣屋跡へと続きます。 なんかこの明知城ははっきり言って消化不良です。城域を頭の中に展開しづらいのも消化不良の一因なのですが、歴史が分ってないのも大きいでしょうね。随所に見られた畝状空堀もこの辺りでは珍しいもののようです。
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