建仁 9 |
1201 |
二階堂山城守行政 |
山上に要害を構えた鎌倉幕府の執事 |
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佐藤伊賀前司藤原朝光 |
行政の娘婿 |
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伊賀次郎左衛門光宗 |
朝光の子にて後に信濃へ配流された。 |
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稲葉三郎左衛門光資 |
光宗の弟にて姓を稲葉と改称し、稲葉の山城と号した。 |
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稲葉三郎左衛門光房 |
光資の孫にて勅勘を蒙り飛騨へ蟄居させられた。以来、城主は断絶した。 |
正元元 |
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二階堂出羽守某 |
二階堂行政の五代の孫 |
應永19 |
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斎藤帯刀左衛門尉利水 |
革手城主土岐氏の出。稲葉の古城を修築して、居住した。又、文安2年加納城を築いた。 |
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斎藤妙椿 |
利水の弟にて瑞龍寺の建立をした。応仁の乱始まり、守護土岐成頼京都へ出陣。 |
天文8 |
1539 |
斎藤左近太夫利政(道三) |
美濃の太守となり古城を修築して居住したが、子義龍と弘治2年に戦い戦死した。 |
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斎藤義龍 |
道三の子にて永禄4年35才にて病死した。 |
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斎藤龍興 |
義龍の子にて永禄10年9月信長軍に亡ぼされ、天正元年信長の朝倉攻めの折り陣中にて戦没。 |
永禄10 |
1567 |
織田信長 |
織田信長:小牧城より龍興を攻め占領。従来の井ノ口を岐阜と改め以来、安土城へ移る迄ここを根城にしていた。 |
天正5 |
1576 |
織田信忠 |
信長の子にて天正10年6月2日、本能寺の変に父子共戦死する迄在城。 |
天正10 |
1582 |
織田信孝 |
信長の跡目相続を議した清洲合議の結果、信忠の子三法師を補する事として城主になる。 |
天正11 |
1583 |
池田之助 |
秀吉、北畠信雄等と信孝を攻め、秀吉が占領の上信輝に与え、その子之助が城主となる。この年、小牧長久手の合戦にて父子共戦死。 |
天正13 |
1585 |
池田輝政 |
之助の弟で信輝父子の勲功により城主となり、城の周囲を改築した。その後三州15万石に封ぜられる迄5年間在城。 |
天正19 |
1591 |
豊臣秀勝 |
秀吉の養子にして文禄年間朝鮮の役に従軍して戦没。 |
文禄元 |
1592 |
織田秀信 |
三法師成人して秀信となり、城主となった。そして秀勝の娘を夫人としたが天下分け目の関ヶ原の役にて西軍の味方した故、かつての城主池田輝政、福島正則等に攻められ落城時に慶長5年、翌6年徳川家康、本多忠勝に命じ岐阜城を壊し、これを加納城に移した。以来岐阜は幕府直轄地として加納藩の監視を受けた。この時に岐阜城は完全に取り壊された。徳川2代将軍秀忠の時代に尾張藩の直轄地となり元和5年岐阜奉行を設け、更に元禄8年岐阜町奉行を設置され明治維新まで及んだ。 |