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岐阜奉行所跡


登城日:(2006.04.22)
所在地: 岐阜市新桜町付近
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
今は奉行所の案内板のみが立てられています。  新桜町から末広町にかけてのこのあたりは江戸時代に尾張藩の岐阜奉行所があったところです。岐阜町は元和五年(1619)尾張藩領となると代官が置かれ、元禄八年(1695)には岐阜奉行が置かれました。奉行所は北屋敷・南屋敷を合わせた東西六十間(約108メートル)、南北百二十間(約216メートル)余の敷地に堀をめぐらし、敷地内には奉行所・道場・同心屋敷・手代屋敷などがありました。
 平成九年に奉行所の一部が発掘調査され、奉行所の遺構である石列が発見されました。また、多数の陶器・磁器の破片、明治以降に奉行所跡地におかれた岐阜尋常小学校(金華小学校の前身)で使用されていた教材等も出土しました。

『岐阜奉行所跡案内板』より

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資料
 

私見
奉行所案内板裏です。  岐阜城が廃城となり、加納城に中心が移された後の金華山西麓下にある岐阜町には尾張藩の飛び地として奉行所がつくられました。以前大久保長安の屋敷としていた旧北屋敷と南屋敷とをあわせたものだったようです。現在もこのあたりは旧態の雰囲気を色濃く残している部分があり、ゆっくり散策するにはよさそうなところですね。
 奉行所の名残りはほとんどありませんが、時折水路に石垣が使われているのが見え隠れしますが、一体それらのうちどこまでが奉行所時代と関係するのかはまったくわかりません(手抜き^^;)
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