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岩村城跡


登城日:(2007.05.03)
所在地: 恵那市岩村町
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
山麓駐車場脇に復元された太鼓櫓 岩村城の特徴的な石垣である六段壁  岩村城は別名を霧ヶ城といい、天然の峻険な地形を活用した要害堅固な山城で、海抜721メートルに位置し、全国の山城の中で最も高地にあり、日本三大山城の一つである。
 岩村城の創築は鎌倉幕府初代将軍、源頼朝の重臣加藤景廉が、文治元年(1185)に遠山荘地頭に補せられたものに始まる。景廉の長男景朝が岩村に移り、加藤の姓を地名の遠山に改め、以後遠山氏が代々居城した。
 戦国動乱の時代に入り、武田信玄の臣秋山信友が天正元年(1573)に岩村城を奪取して入城したが、同三年に織田軍に敗れ、以後城主は川尻鎮吉と森蘭丸、森長一、森忠政の森三代、田丸具忠と二十八年間に目まぐるしく交替した。
 慶長五年(1600)関ヶ原合戦後、西軍に属した田丸氏に変わって松平家乗(大給松平家)が城主となった。江戸時代の城主は松平氏二代、丹羽氏五代のあと大給松平分家の松平氏七代を経て明治維新を迎えた。
 城郭は中世城郭を近世城郭へと修築し、本丸、二の丸、出丸、帯曲輪、東曲輪、八幡曲輪等々が設けられ、丸と曲輪は石塁や自然の断崖をもって区画され、要所に櫓、塀、城門が構えられた。
 建物は明治維新により廃城され、後明治六年(1873)に取壊された。

藤坂の険で登城します。意外としんどいです。 ◆藤坂の険
 藤坂は険しい急坂で岩村城守備の前衛の役を持ち、一の門に至る約三百メートルの間を云う。
 途中で大きく左折するが、この地点を初門又は假御門と称していた。戦争になると、ただちに門を構え、柵をめぐらして強固な防衛陣地としたが、この初門の地点から城下街を一望にすることが出来るので敵の動静も知ることができた。
 平時の藤坂は登城坂にすぎないが戦争になると初門をはじめとして坂の途中に何ヶ所も陣をつくり防御したので容易に進むことが出来なかった。
 藤坂の名は伝説として岩村城を創築した加藤景廉の妻、重の井が紀州から藤の実をとりよせて植えたことから始まったと云われ、藤にまつわる伝説が幾つかある。

◆一の門
 藤坂と土岐坂を区切っているのが一の門で、ここからが岩村城の本城である。一の門は櫓門(二階建)で、左側に番所があって、平時でも監視の番人がいて出入りするものを厳重に調査してから通した。つづいて多門(石垣に上に設けた長屋で、城壁を兼ねた)があり、常に武士が詰めていた。
 一の門は岩村城守備の第一線で櫓門の上から城下街を一望に出来る町の動静については昼夜を問わず兵が看視に当たっていた。
 右手に高い石垣(石塁)が連なり、高台に屋敷もあった。一の門をくぐると土岐坂となるがその突き当りの石垣の約十メートル幅は岩村城において、最も古く中世末期のものと云われている。

三重櫓や畳橋があったあたりは高石垣が威圧的です。 三重櫓や畳橋があったあたりは高石垣が威圧的です。 ◆大手門、三重櫓、畳橋
 畳橋は敵が攻めてくると橋坂をとってしまうのでその名がある。大手門(追手門)は正門のことで、城門の中で最も重要なもんであるから、その防備は厳重を極めている。大手門は二つあり、一つは櫓門、一つはその前面の枡形へ入る平重門である。
 枡形も大手櫓門をかばう防御施設である。空堀にのぞんで三重櫓(三階建)があった。岩村城は山城で天守閣は不要であるが、この三重櫓が天守閣の如く偉容を誇っていたのは、城下街から見上げたとき、ここが最も見栄えのする地点であったからである。しかし岩村城の本格的要害は、ここから奥に展開する。この辺りの石垣は最も美しく絶壁にのぞんだ三日月形の曲線は扇の勾配とも又は武者返しとも呼ばれている。

大手門の石垣は弧をえがいています。 ◆霊泉 霧ヶ井
 霧ヶ井は鎌倉時代から清らかな水を湛えている。この井戸は城主専用のもので、お堂の中にあった。岩村城の別名を霧ヶ城と云うが、そんな非常に霧が発生しやすい地勢にあることから名づけられた。伝説によると敵が攻めて来たとき、城内に秘蔵した蛇骨を霧ヶ井に投入すると、忽ちにして雲霧が湧き出して全山をおおい、敵兵は地形が見えなくなって攻めあぐみ、そこへ城兵が突入して勝利を得た。これは山霊の加護によるもので、依って霧ヶ城と呼ばれ天下の名城と伝えられている。
 霧ヶ井はどんなに日照りがつづいても、決して水の涸れない不思議な井戸で、江戸時代に百日余り続いた日照りにも水は豊富であったと伝えられている。

◆菱櫓と俄坂
 山の地形にあわせて石垣を積んだので菱形になった、山城特有のものである。この上にあった建物も菱形であったので菱櫓と呼ばれた。菱櫓は全国城郭にもその例はあまりなく中世期の山城を近世城郭に改築した城郭の貴重な歴史的遺構である。菱櫓の前に俄坂門(櫓門)があり、番所、多門があって大円寺、水晶山方面を遠望監視した。
 中世の頃はここが大手門(正門)で大円寺城下町説もあり、大円寺へ通ずる険しい急坂も残っている。
 実際は裏手の門で、普段は使わないが落城等の非常口として用いられた。俄坂もその意味がある。俄坂の途中に中世城の遺構である東曲輪があるが、天然の峻険を利用し敵の来襲に備えていた。

◆本丸
 本丸は海抜721メートルあり、日本の山城の中でもっとも高地にある。
 その歴史と広大さと要害堅固さから日本三大山城の一つとされている。東曲輪からも二の丸からの入口も埋門を通じてやっと進入できる。本丸には二重櫓と納戸櫓があり、二重櫓は城主の最後拠点となる重要な建物であった。多門は三つあり、東西の石垣に沿ってあった。山城のため天主閣はなかったが城内の要所要所に十一の櫓(二階建又は三階建)又は櫓門があって常時各方面を監視しており、しかも全部が本丸に統一掌握されるようになっていた。本丸の柵門のそばに岩村城創築者加藤景廉公が植えた松があったが安政年間(1854年頃)に大風のため折れて消滅した。

◆本丸埋門(うずみもん)
 本丸へ入る搦手門は埋門となっている。石垣のなかに一階部分は埋まり、門の上にこれに跨って長い多門があって監視と防備の役目を果たした。また敵が攻めて来たとき土や石で門を埋めてしまうことも出来るので、他の門に比べて埋門は堅固であった。埋門の石垣は野面積み(自然石を積む)、打込ハギ(自然石を石垣の外側のみ平にする)、切込ハギ(切石を使う)の三種を一度に見ることが出来る。これは岩村城の変革を示す貴重な遺構で野面積みが一番古く、切込ハギは亨保三年(1718)にあった大地震のあと修復したものである。埋門左側の長い石垣は土岐坂の石垣につぐ古いもので、一見粗雑であるが意外と頑丈である。

『岩村城跡案内板』より

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資料
 

私見
六段壁の石垣越しに本丸を見上げます。  GW真っ只中、晴天に恵まれて岩村城にやってきました。駐車場はどこだろうと少し迷いましたが岩村歴史資料館前の駐車場に停め、藤坂を歩いて登っていきます。駐車場そばには岩村城の城主居館跡として太鼓櫓が復元されています。平成のふるさと創生1億円で建設したんだとか。いやぁ久々にその言葉聞きました。
 さて岩村城ですが、歩いて藤坂をのぼっていくほかに車で山上の出丸まで行けてしまえますので時間がない方には嬉しいですね。しかしやはり藤坂の険を歩いて行くほうが楽しめると思います。
 すぐに気がつきましたが、この岩村城には実に多くの案内板が設置されています。何も知識がなくても順番に文章を読んでいきながら楽しみつつ本丸へ到着できるのはさすがは観光地としても申し分ない配慮ですね。そうそう、話が前後しますが麓の資料館で岩村城の復元模型をチェックしてから登るとより一層臨場感が出ますよ。
本丸の埋門跡  途中立ち入り禁止となっている「狸の道」がとっても気になりましたが、そのまま登っていって正解でした。大手門や三重櫓が建っていたところに残る高石垣に圧倒され、また空堀跡見て当時の畳橋を想像しながらしばしそこで佇んでしまいました。ここはさぞかし攻め手にとっては怖い場所だったでしょうねぇ。
 そのあとの石垣ラッシュはすごかった。本丸下にある六段壁の石垣はもちろんですが、時代の変遷が分かる埋門の石垣も非常に興味深いです。
 ところで二の丸方面へは立ち入り禁止となっていましたが、特に工事をしている様子もなかったと思います。私有地の関係で入れないようになっているのでしょうか。遠めにも石垣が草深い中に顔を出しているのがわかりましたし、そちら方面も散策したかったんですけど。
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