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長屋氏屋敷跡
登城日:(2004.10.09)
所在地: 不破郡垂井町
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
民家脇に残される屋敷跡碑  文和二年(1353)六月十三日北朝の後光厳天皇は南朝軍に京都を奪われ、足利義詮らと共に重井へ避難され、一時、重井の長者長屋氏の屋敷を仮御所にされた。
 その頃、原・蜂屋らの南朝軍がここを襲うと聞き、急いで美濃国守護土岐頼康の居城である、揖斐小島の頓宮へ移られた。
 後光厳天皇は、八月二十五日足利尊氏の西上を聞き、頼康の造営した重井頓宮へ戻られた。九月三日尊氏の大軍が重井に到着し、尊氏は直ちに天皇に拝謁、天皇を安堵させた。
 尊氏の重井での宿舎は、重井の長者長屋氏の屋敷で、後光厳天皇の仮御所になった所である。その後、尊氏はここで病気になり、天皇の京都への還幸は遅れた。十七日尊氏の病気もなおり、天皇を中程にし、義詮が先駆け、尊氏が後陣の隊列をつくり、重井頓宮から京都へ出発された。

『長屋氏屋敷跡案内板』より

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資料
 

私見
民家脇に残される屋敷跡碑  長屋氏屋敷跡は、完全にたまたまでした。垂井城跡を探していたら発見したのですが、垂井城跡のある専精寺から南へ、すぐに左折したら永法寺の前をとおってすぐ南側の民家脇にありました。小さなスペースに碑が残されていますが、それだけのところです。
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