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広島城跡登城日:(2001.03.23→2011.07.31)所在地: 広島市中区基町 |
歴史 |
広島城は、毛利輝元の命により天正十七年(1589)、太田川河口の中州を城地として築城を始められた。地盤が築城に不向きであったため「島普請」からの難工事であったが、やがて城下町が出来、永きにわたって整備が続けられた。慶長五年(1600)の関ヶ原の合戦の敗北により、萩に追いやられた毛利氏に代わって、福島正則が入城。城下町の整備を推進したが、元和五年(1619)石垣修復を無断で行ったことを理由に改易となる。その後浅野長晟が入城し、浅野氏十二代が続いて、明治維新を迎えた。その後、第二次大戦の際に原爆投与によって城は破壊され、昭和三十二年にコンクリート製の現在の天守が復元された。
平櫓、多聞櫓及び太鼓櫓の創建時期は、天正期末(16世紀末)頃と推定されています。このうち太鼓櫓は17世紀初期に改修されたものの、3棟とも江戸時代を通して、二の丸の馬出機能を確保する建物として存在していました。その後、平櫓及び多聞櫓西半分(平櫓側)は明治初期に取り壊され、残った太鼓櫓や多聞櫓東半分についても昭和20年5月6日の原爆被爆によって倒壊炎上しました。 この建物は、平成元年の広島城築城四百年を記念して、発掘調査や昭和初期に当時の陸軍本部が作成した実測数値、明治から昭和にかけての写真等をもとに、復元に着手し、平成5年8月に完成したものです。
表御門は天正期末(16世紀末)頃の建造と推定され、昭和20年の原爆被爆による消失までの約350年間存続していました。 現在の表御門は、平成元年の広島城築城四百年を記念して復元に着手し、平成3年に完成したものです。 この平成の復元では、昭和9年に当時の陸軍第五師団経理部が作成した実測図をもとに発掘調査の成果や明治期から昭和期にかけての写真を総合的に検討して、消失後も現存した表御門の礎石(柱下の石)上に、昔どおりの工法によって往時の姿をよみがえらせています。 毛利輝元は、天正十九年(1591)広島城を築城したとき南側の外掘と中塀との間を東西に走る大路をつくり、それを浅野藩時代には八丁馬場とよんだ。 その道路の東端にある門は、広島城から京都へ向かう最初の出入口にあたるので京口御門とよばれた。 ここにすえ付けてある石は昭和三十三年天守閣再建に際して、もと、天守閣柱下の礎石を掘りおこして原型のまま移したものである。 玉石排水溝の内側が天守台の大きさである。一段低くすえてある石は今もなお天守台の地下に埋もれている礎石の位置を示している。 この石組は、かつて内堀と中堀とを結んでいた暗きょの遺構の一部で、堀の水量の調節を行った水路と考えられます。 昭和五十七年九月に、この地下道建設工事中に発見されたものです。 (発掘調査 1991年6月〜11月/調査主体 財団法人広島市歴史科学教育事業団) この地は、かつて広島城内であった。広島城は1589(天正17)年頃から築かれ、明治初年まで存続した。城郭は約1キロメートル四方の広さで、今ものこる本丸・二の丸や内堀を含め、大小の郭と三重の城堀をめぐらしていた。その三重の城堀のひとつ中堀の一部、東西長204メートル部分が、この敷地内から発掘された。堀幅は約20メートル。堀の両際には石垣列が連なり、北側中央部には櫓建物が乗っていた石垣台の下半部ものこっていた。この石はその石垣台の石材である(敷地東隅に櫓台石垣写真の説明板あり)。 発掘により、掘内からは、瓦や陶磁器、下駄・漆器ほかの木製品も出土し、三角州を長大に掘って堀をめぐらせたこと、工夫をこらして砂地へ直に石垣を積んだこと、掘沿いに建物が並び、当時の人々の暮らしがあったことなどが確かめられた。 この石積みは、広島新交通システム「アストラムライン」建設工事に伴い、平成四年から平成五年にかけて城北駅北交差点付近において発掘調査された広島城外掘の石垣に使用された石材を利用して構築されたものです。 広島城は、約400年前の慶長四年(1599)に毛利輝元によって築城されたもので、内堀、中堀、外堀の三重の堀が巡る、面積約1キロ平方メートルに及ぶ中・四国最大の城郭でした。 この付近は、当時「北の郭」と呼ばれた武家屋敷地の北西部にあたります。 この度、掘り出された石垣は、明治末年に埋め立てられ、再び約80年ぶりに道路の下から姿を現したものです。 この石積は、広島県立総合体育館建設工事の際に発掘された広島城中堀跡の石垣に使われていた石材で築いたものです。 広島県教育委員会 『広島城跡案内板』より、他
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資料 |
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私見 |
随分とご無沙汰でしたが、久々に広島城にやってきました。今回は車に自転車を積み込んでの登城です。自転車の機動力を活かして外堀の位置や、密かに残る痕跡をたどりながら往時の広島城を想像してみようというのが今回の狙いです。
車を県庁駐車場に停めると、自転車を降ろします。最近、特に近世城郭を訪れる時は実はこのパターンが増えてきているのです。歩き回る時間を短縮するためなのですが、何より徒歩だと途中で「まぁこの辺でいいか」と適当なところで散策をやめてしまうこともありますので、そんな軟弱な心を持つ私には自転車は心強い訪城ツールなのです。 まずは外堀を巡ります。天守とは逆向きに南へ相生通りに出て左折、そしてしばらく行くと「八丁堀外濠」を示す石碑(石灯籠?)が出てきます。そこから北上していくとその名もずばり「京口門」バス停そばには八丁馬場跡や京口御門跡を示す案内や碑が造られています。地形の凹凸による雰囲気は感じられませんが、碑があるだけでも当時の規模が直に伝わってくるのが嬉しいですね。北上していくと天守が近づいてきますので、今度は内堀を一周してみます。遊歩道が作られ、自転車でも落ち着いてめぐることができるようになっています。時折、自転車を止め、二の丸、本丸を撮影。楽々と全方向から撮影ポイントを見つけることができるのも自転車での城攻めの強みです。 内堀の北東隅に出ました。ここは鬼門除けが作られていますね。よく見ればその外側の道路もそれに合わせるように角が丸くなっています。そして天守を眺めながら北から西へと角度を変えてみていきます。ここらは内堀の幅も広く、広がりのある天守が撮影できますね。徒歩だとここまで回り込むことが少ないと思いますが、なかなかいいポイントですよ。 そして今度はさらに北へ。アストラムライン「城北」駅あたりです。近づくとそれと分る石垣が積み上げられています。もちろん当時の遺構ではなく、外濠跡から出てきた石材をオブジェのように組み上げているのです。うーん・・ここは賛否の分れるところですねぇ。広島城にはほかにも中堀跡の石垣が県立総合体育館前に展示されており、石垣を見る機会を増やしていただけているのはありがたいのですが・・。気を取り直して、もう少し北へ。城北通りと交差する地下道へのスロープを下りていきます。この日自転車で走って初めて気づきましたが、城の近くには地下道や道路の下をくぐる立体構造が多く作られています。そしてその地下には意外と面白い試みが行われていたのです! 城域の北西隅にあたる「城北駅北」の交差点地下にはかつての外濠を示す工夫がされています。左右の両壁面を一杯につかって外濠の石垣の雰囲気がわかるようにしてあるのです。ここは素直に面白いと思いました。まるで城の地下を見学している気分になれます。遺構こそありませんが、雰囲気だけでも十分満足できる状態です。 こうした取り組みは、二ノ丸南側の地下道にも見られます。内堀と中堀とをつなぐ石組みの暗渠跡が地下道の壁面に展示されています。「ここにこうやって二つの堀の水位が調整される仕掛けがあったんだな」といい勉強になります。これも地下道を上手に使った面白い取り組みです。初めて見ましたが、広島城は地下からも楽しめるのですねぇ! さて、大幅に寄り道してしまいました。駆け足で天守へ向かいます。本丸は現在はだだっ広い平坦な地形ですが、かつては上下2段構造になっていたそうですね。天守手前右手に天守の礎石が展示されていますので先に見ておきましょう。案内板にもあるように忠実に再現されているようなので私は結構この礎石展示は好きなのですが、ほとんど見に来る人はいませんね(^^;。さらに奥(東側)には石垣が崩れているところがあります。どうも福島正則が壊したんだということですが・・。こうした細かいネタは当日天守内で専門家の方がお城の質問を受け付けるサービスをやっておられましたので、いろいろ伺った成果です。折しも夏休みということもあり、子供たちも多くやってきていました。子供たちにはこの広島城はどう映っているのでしょうね。
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