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吉川元春館

吉川元春館跡


登城日:(2009.04.26)
所在地: 山県郡北広島町海応寺
 
【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
吉川元春館の主殿舎跡 吉川元春館の有名な石垣  駿河国(静岡県)を本拠としていた吉川氏は、鎌倉時代の終わり頃に大朝本庄(北広島町大朝)に地頭として入り、室町時代には安芸国の北部を中心とする地域を治める国人領主に成長します。その後戦国時代には周防国の大内氏と出雲国の尼子氏との間に立たされましたが、毛利元就の次男である元春を当主として迎えることにより毛利体制に入ります。吉川元春は弟の小早川隆景とともに毛利氏を補佐し、おもに山陰攻略に貢献します。
 1600年関ヶ原の戦い後、吉川氏は山口県岩国に移りますが、それまでの吉川氏に関わる遺跡が山県郡北広島町に分布しています。そのうち、駿河丸城跡、小倉山城跡、日山城跡、吉川元春館跡、松本屋敷跡、万徳院跡、洞仙寺跡、西禅寺跡、常仙寺跡の9遺跡が史跡吉川氏城館跡として国の史跡に指定されており、小倉山城跡、万徳院跡、吉川元春館跡の3遺跡は広く一般へ活用するために整備し、歴史公園として公開しています。

 毛利元就の次男である吉川元春が、1583(天正十一)年頃、隠居所として建てた館跡です。本拠城である日山城の西南麓、志路原川に面した河岸段丘上に立地しています。館は石垣のある東側が正面で、北は切岸と土塁、南側は堀と土塁で区画された間口110メートル、奥行き80メートルの範囲です。
 館の西側には元春の菩提寺である海応寺跡や元春と元長の墓所、積石塚がのこっており、このうち館とその周辺を発掘調査し、整備しています。
吉川元春館の石切場 ◆石切場跡
 東西7メートル、高さ約4メートルの石切場の跡です。ところどころに長さ10センチ、幅8センチの石切の工具の痕(矢穴)が残っています。
 中央の斜めに倒れている石の矢穴と岩盤に残っている矢穴が一致することから、中央の石は割られたままで使われなかった石であることがわかります。花崗岩の割れ目(節理)を上手に利用しながら、石を切り出していたのでしょう。

◆正面石垣
「石つき之ものとも」の石垣(現地案内板より)  中央の幅8メートルの門跡の北側に50メートル、南側に20メートル延びる高さ約3.5メートルの堂々たる石垣です。
 間隔をあけて据えた大きな立石(A)の間に平らな石を横積み(B,C)にする石積技法です。石垣の裏側にもきれいな石積面を持つ特徴がみられます。
 このような石の積み方は、万徳院跡・二宮氏館跡・松本屋敷跡・今田氏館跡など、この地域にみられる独特な積み方で、古文書に記されている「石つき之ものとも」と呼ばれていた石垣築造の専業職人達が築いたものと考えられます。

『吉川元春館跡案内板』より

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資料
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私見
積み方が特徴的な石垣 復元された吉川元春館の庭園  吉川元春館は、「石つき之ものとも」で有名な特殊な積み方の石垣がよく知られていますね。今回もそれを見るためだけに来たのですが、予想以上に整備が進んでいて驚きでした。駐車場に車を停めるとすぐに館跡をめざしてもいいのですが、隣接する『戦国の庭歴史館』を訪れてガイドブックを購入したり、そこにおられる方の説明を聞くのもいいかもしれません。私はものすごく熱心な方とビデオを一緒に見ておりました(^^;。
 館跡は、斜面の一部にある石切場を持っています。ここで切り出した石で表門の石垣を組んだのでしょうか。ただその石垣は正面にだけに残っているものなのですね。いろんなところで写真を見ていますとたいていこの表門付近の石垣のものでしたので、もっとあちこちにあるんだと思ってしまっていました。ちなみに「石つき之ものとも」の石垣は適当な間隔で立石が配されて、その間には寝かした石が組まれるというものですが、この構造は表側だけではなく裏側にもしっかりと面を持っているということです。
美しく整備された吉川元春館  表門に足を踏み込むと右手には主殿舎が2つあり、廊下跡を経て小さな庭園が復元されています。さまざまな役割を持つ建物があったようですが、現在建物として復元されているのは台所とその附属室のみです。なぜここだけ・・?うーん・・改めて考えてみると、まずは館跡を一回りして疑問を整理してから『戦国の庭歴史館』で質問をして、再度館跡を散策するという手順がベストなのかもしれませんね。
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