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宮尾城跡
登城日:(2003.10.27)
所在地: 佐伯郡宮島町要害山
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
宮尾城跡である伊勢神社 宮尾城跡である伊勢神社 ◆厳島合戦
 1551年(天文二十年)中国・九州地方に権勢を誇っていた大内義隆は、その家臣陶晴賢の突然の謀反により滅亡した。義隆と盟友関係にあった、毛利元就は1553年(天文二十二年)晴賢に対し挙兵したが、戦力的に陶軍の方がはるかに優勢であったため、奇襲の一計を案じた。
 平地での戦いを不利と見た元就は、厳島に戦場を求め1555(弘治元年)五月、島の宮尾に城を築き、陶の二万余の大軍をおびき寄せた。
 同年九月三十日、元就は三千五百の兵とともに、折からの暴風雨と夜陰に乗じ、厳島神社の背後にある包ヶ浦に上陸、翌十月一日早朝、山を越え塔の岡にある陶軍の本陣を急襲した。これに加え大鳥居側の海から元就の三男、小早川隆景の軍と宮尾城の兵が呼応し、厳島神社周辺で大激戦となり、不意をつかれた陶軍は壊滅した。晴賢はわずかな兵とともに島の西部へ敗走するが、なすすべもなく山中で自刃した。これが世に言う厳島合戦である。
 この合戦に勝利した元就は、戦いで荒れた厳島神社の再建・修復に努め、中国地方統一の第一歩を踏み出したのである。 厳島合戦の図
 宮島の標高30メートルほどの要害山に城が築かれたのは弘治元年(1555)のことである。陶晴賢との対決を控えた毛利元就は、広島湾要塞網の一つとしてこの宮島に築城し、守りには厳島神領衆の己斐豊後守や新里掃部介ら300名余りを詰めさせた。
 弘治元年九月、厳島を戦略拠点とすべく島に上陸した陶方二万の兵は一斉に宮尾城へと攻めかかった。陶方の激しい攻めたてに300名が守る宮尾城はよく守り、10日間も耐え抜いたのである。そして陶を厳島におびき寄せる囮の役目を見事に果たした宮尾城が、その後の毛利方の大勝利へとつながったことは言うまでもない。

『宮島案内板』より

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資料
 

私見
小早川軍が進んできた大鳥居の海  宮島の桟橋を出て右側に位置する小高い要害山がかつての宮尾城跡です。しかし、その前にびっくりしたのは島中に鹿がいるんですね。よく知らなかったのですが奈良公園状態だったなんて・・って常識でしょうか(笑)。
 さて、城跡は現在は伊勢神社となっているところが本丸といわれています。それほど堅牢とは思えないのですが、ここで三百対2万の死闘が繰り広げられ、しかも2万もの大軍が攻め寄せているのを見事に防いだというのですから驚きですよね。今では誰も来ないほど寂しい状態であり、私が訪れたときには鹿が2匹ほど散歩してるくらいでした。
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