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小倉山城跡登城日:(2009.04.26) 所在地: 山県郡北広島町宮迫 |
歴史 |
◆「小倉山城から吉田へ」 NHK大河ドラマ「毛利元就」の原作『山霧』(永井路子)に登場するおかた(ドラマでは美伊)は、ここ小倉山城の城主吉川国経の娘、吉田の毛利元就に嫁いだのは、1518年(永正十五年)のことと思われます。すなわち、元就が初陣で安芸の守護、武田元繁を倒した翌年に当たります。そのとき、おかたの兄吉川元経は、元就の異母妹の『松姫』を妻とする関係にありました。 当時、毛利より吉川の方が少し領地が大きかったため、『おかたは不承不承嫁いだ』と、大河ドラマでは表現されていますが、政略結婚そのものが、女自身の器量として、誇りにさえ思われた時代であったようです。 おかたは、元就との間に三男一女をもうけました。 『吉川』を継いだ二男元春と『小早川』を継いだ三男隆景は、『毛利両川』として、毛利を継いだ長男隆元、その子輝元を助けて、中国地方制覇を成したことは有名です。 おかたは、元就の悩みを聞き、よき相談相手となるなど、元就にとって、なくてはならない大きな存在であったようです。 中世の女性は、男性同様の相続権をもち、名前もありましたが、系図には「女」とだけ記されることが多く、仏門に入って得られる法名などが、当時の女性を識る手掛かりとなっています。おかたは、1545年(天文十四年)に四十七歳で死去、法名は『妙玖』。 ◆石積 石積は、郭の東側と西側を区画するためにつくられた土留めです。郭は、2度の改修によって拡張されていますが、石積は2度目の改修のときにきずかれています。東側に建物跡が多いことから、重要な施設は東側にあったと考えられます。 ◆門跡・土塀跡 門跡は2本の柱(鏡柱)と控え柱で構成されており、東側下手から取りついている道が城へ登る通路となっています。門の北側には、土塁が築かれ、南側には土塀が続き、郭の内外を区画していました。 『小倉山城跡案内板』より
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資料 |
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私見 |
小倉山城の築城年は明らかではないようですが、十五世紀中ごろには吉川氏の本拠として機能しており、やがて十六世紀中頃には日山城へと本拠が移されていったことはわかっています。比高約50メートルほどの丘陵上に東西約250メートル、南北約300メートルの範囲に本丸(甲の丸)郭群、二の丸郭群、三の丸郭群など実に多くの郭を形成し、また鞍部を掘り切ってそれぞれの郭群を独立したものになっています。 非常に見事な城跡と、それをうまく整備された地元の方々の熱意には感動するものがあるのですが、なぜ駐車場に置かれた案内板の文章がドラマありきなんでしょうね(^^;。ま、大河ドラマの勢いもあって整備が進んだのかもしれませんし、一般の興味が集まるいいきっかけではありますね。 いよいよ北側駐車場から城域へと踏み込んでいきます。二手に分かれているので右側のルートを選びました。右に二の丸郭群、奥が御座所跡、そして左に本丸の郭群があり、まともにこのルートで侵入したら即死だぞと考えつつ、ワクワクしてきます。しかし本丸が独立してしまっている構造なんですねぇ。 本丸の郭群は整備状況も完璧でした。見事な高い切岸を中心にして、三方に郭が広がります。それぞれに建物跡を復元されていたり、門跡や土留めの石垣もあり、散策しやすいです。またこの日は天候に恵まれず傘をさした状態での登城でしたが、それでも余裕で楽しむことができるのはいいですね。 本丸から見て、北東尾根に延びているのが三の丸です。城主を隠居した先代の居館という性格もあったようですが、ここも本丸との独立性が高いのを感じました。 一回りして思った率直な感想は、非常によく整備された山城跡だと感心させられました。是非皆さんにも訪れていただきたいと思うのですが、一般的な城好きには地味すぎるんでしょうねぇ。
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