
標高191メートルの通称「城山(じょうやま)」の山頂を中心にして、東西約1000メートル、南北約500メートルの範囲に城郭遺構が分布する大規模な山城である。
芦田川を挟んで正面に見える亀寿山城(標高139メートル)を本拠地として備後南部に勢力をもっていた国人領主の宮氏や、相方城より南の地域を本拠地としていた宮氏一族の有地氏などにより16世紀前半には、中世山城として整備されていた。天文二十一(1552)年に宮氏が滅んだ後は、有地一族が出雲国や備後国北部などに給地替えされるまで、相方城を拠点に当地を支配していた。その後は、毛利氏の直轄城となり、東方備えを目的とした近世城郭として整備され、関ヶ原の戦い(1600年)による毛利氏の撤退によって相方城は廃城となった。

東側郭群の最高所となる郭1(主郭)は、700平方メートルと広く、遺構確認の発掘調査により、郭1の西端より長辺が3.5メートル、短辺が2.9メートルの1間x2間の掘立柱建物跡が確認されたり、郭1東端直下の郭4には郭1から流れ込んだ大量の瓦が出土したことから、郭1の東端には瓦を使用した中心となる建物が存在していたと考えられる。出土した瓦は軒丸瓦・軒平瓦ともに二種類に分類され、a類の軒丸瓦は町内戸手の素盞嗚神社に使用されている軒丸瓦と同じであり、神社には相方城から移築されたと伝わる城門が保存されている。