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鞆城跡
登城日:(2003.10.27)
所在地: 福山市鞆町、鞆歴史民俗資料館
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
資料館となっている鞆城跡  戦国時代、瀬戸内海の要所、鞆港に面して築かれた海城です。16世紀初頭、備後を領有した尼子氏に対抗して、鞆の浦を根拠地にしていた毛利元就が、天文年間(1532〜55)に築城したと推定されています。
 元亀四年(1573)、織田信長によって京都を追われた最後の将軍、足利義昭は鞆城に入り、城は拡充されました。毛利氏は直轄地として、次々に鞆城代を置きました。
 慶長五年(1600)、安芸備後に入風した福島正則により再築城されました。鞆港より三の丸、二の丸、本丸に追手門から上がる梯郭式で、東は福禅寺まで北は搦手門へと下り沼名前神社の参道までの広大な縄張です。
 元和六年(1615)の一国一城令によって取り壊されましたが、水野、阿部時代には町奉行が置かれました。
 現在、郭、帯郭、土橋、枯山水、石垣、堀等の遺構が残っています。天正年間以前の石垣は自然石を積み上げた「野面積み」、天正年間以後のは、小石をはさみ表面を揃えた「打込みハギ」、江戸初期のは切石で表面を揃えた「切込みハギ」で、毛利・福島時代の石垣が散見されます。
刻印のついた巨石 ◆鞆城の石垣と刻印
 この石垣は鞆城本丸の東南隅とそれに連なる石垣の一部を復元したものである。
 鞆城は近世初頭に城郭を整えた城であるが、早くから取り壊されたため、その縄張りに不明な点が多い。1986年(昭和61年)に実施した発掘調査により、この石垣の基底部が確認され、歴史民俗資料館の建設にともない復元整備したものである。
 なお、この石垣には回・大・△などの刻印が認められるが他にも城跡内に残る石垣から#(これを少し傾けた感じ)・○に一、二、八、卍・日などが確認されている。
 刻印は城の石垣によく見かけられる石工・採石地の印呪符などの諸説があるが定説はない。

『鞆城跡案内板』より

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資料
 

私見
資料館となっている鞆城跡  山陽自動車道「福山東」インターを下り、福山市街へまっすぐに進んでいくと大きな橋が新しく作られていたりして鞆城がある鞆の浦へのアクセスは非常に簡単です。が、結構混んでいます。しかも混んでないところでもノロノロ運転(というか安全運転?)の車が多く見受けられ、ここの地域性なのかなと感じずにはおれませんでした。
 鞆城は現在は歴史民俗資料館として小さな集落の中でもひときわ高地に位置するところにありました。無料の駐車場もありますので車で来る場合も安心です。資料館下の坂道の途中には復元された石垣を積み上げられており、刻印も確認することができるようになっています。さらにそのまま上へとあがっていくと頂上部の平坦な地形の奥には案内板とその足元には無造作に転げられた石垣の残骸がありました。思ってた以上に遺構を楽しめそうだなと思い、資料館へ入ろうとしたところ「!」・・本日閉館でした。あぁ月曜は来ちゃ駄目だったんですね。うぅ何度も同じことをやってしまう自分・・。おかげで案内板にあるような土橋や堀跡などよくわからぬまま消化不良で帰ることになりました。事前に準備しておけばよかったんですが急遽強襲したので止む無し、ではあるんですけどねぇ。
 ま、ここからの風景は素晴らしいのでそれだけでも楽しむことができるんですが。
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