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波賀城跡
登城日:(1999.09.19)
所在地: 宍粟郡波賀町上野字城、波賀城蹟公園内
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
復興天守。  十一世紀の初めの頃までに、私達のこの地域は、伯可荘として石清水八幡宮の荘園になっていました。
 この地には有名な名馬の伝説があります。「その昔、波賀七郎という武士がおりました。彼は素晴らしい馬を飼っていましたが、ある時そのことが都にまで聞こえ、その名馬を献上せよとの命令が届きました。七郎は名馬を惜しんでそれに従わなかったので、合戦になりました。彼は「馬隠しの穴」に馬を隠して戦いましたが、とうとう力尽きて戦死してしまいました・・・・
 伝説の波賀氏は、伯可荘の有力者であったと思われ、ここに初めて城を築いたのも、この一族であったものと推測されます。
 十三世紀の中ごろ、地頭としてこの地に移って来たのが中村氏や大河原氏です。彼らは鎌倉幕府の御家人で秩父(埼玉県秩父郡)を本拠地とした秩父丹党、丹治氏の一族です。中村氏は初代の光時から戦国時代末期の、吉宗まで二十代にわたって波賀城主であったといわれます。波賀城を修理・拡張し、これを拠点として波賀城蹟は、このような歴史を持つ城を戦国時代末期にさらに拡張・整備した時のものと考えられます。羽柴秀吉が播磨を制圧した時に、北の守りの拠点としたものである可能性も考えられます。
 この城は山陽道と日本海側を結ぶ因幡街道や、それと千種を結ぶ街道、三方に通じる街道を眼下にする戦略的な位置にあります。ほとんど独立した山に築かれたために麓から本丸までの距離が短いので、途中に多くの郭を作って縦深をとっています。
 また、西側の小山(古城)にも砦を築き、一体となって敵軍を防ぐ工夫をしています。復元された城の石垣は中世と近世の中間的な特徴を持ち、全体の縄張りとともにこの城が過渡期のものであることを示す貴重な遺構になっています。
 平成二年三月、波賀町では、地方の時代をめざす、ふるさと創生事業の一環として、波賀城史蹟整備に取り組むことを決め、城蹟整備専門委員会を設置して、文献、古文書など考古学的及び地理的環境からみた波賀城史の調査研究を行う一方、城山の山頂部分を中心とする城郭遺構とその縄張りと、山麓部の製鉄遺構の発掘調査等を行いました。このことから波賀城蹟は、それが波賀町の史蹟の中核であるだけでなく、裾野の広い史的遺産を含んでいることが確認され、城蹟の整備はそれ等の歴史的、文化的遺産の更なる調査と保護をも含めて実施されるべきものと結論を得ました。このたびその第一期の事業として整備した城山の城蹟公園が、波賀町史のシンボルとして、町民が町史を学ぶ、心のよりどころの場となって、永く後世に活かされてゆくことを祈りつつ城蹟説明の一文といたします。

『波賀城跡案内』より


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資料
 

私見
復元された石垣  波賀城は中国道山崎ICを降りて、約1時間ほど国道29号線を北上すると右手に小高い山の上に立つ小さな天守が見えてきます。するとすぐに波賀城蹟公園の標識に従い、整備された車道をひたすら登っていきます。結構長いです。
 まだ真新しく見える駐車場に車を止め、砂利道を200メートルほど歩いていきます。左脇はがけです。よく見ると水平に低い石垣が続いているのが確認できます。
 やがて茅葺き屋根の管理事務所が出てきます。窓口で波賀城の本を売っているようです。でも誰もいません。せっかく買おうかなと思ったんですけどねぇ。
 その管理事務所からは一本道が天守へと続いています。天守への登り道はすべて木板で浮橋のようなものが延々と続いており、周りを見渡すと城跡というよりもはや手入れの行き届きすぎた公園です。しかし、途中に出くわす郭跡を示す標識や、その標識のたつ平坦な箇所からは見事に防備の為の山城が想像できます。そしてその先には二階二層建ての天守、いや櫓が建てられています。山肌のぎりぎりに建てられ、大きな石落としがあり意外と存在感があります。しかしその入口には『学習資料館』という札がつけられています。中をあけると波賀町の歴史資料が展示されているだけです。なるほど、誰もここが天守だなんていってないんですね。ポン。
だったらなんでもアリかぁ。・・ってねぇ。とりあえずその学習資料館って札だけはとっておいて欲しかったですが。(^_^;
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