城めぐドットコム HOMEへ Check   Twitterでつぶやく    


姫路城

姫路城


登城日:(01.01.01→07.05.27
→11.03.30→2013.02.09)
所在地: 姫路市本町68番地
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
天空の白鷺全景  姫路城が現在の縄張りとなったのは関ヶ原の合戦の翌年にあたる慶長六年(1601)から八年がかりで築城されたのがはじめである。当時の城主は池田輝政であった。関ヶ原の合戦の功績を買われて姫路城に入城した輝政は家康の次女督姫を室とし、豊臣秀吉が二十年前に築いた三層の城を五層七階の巨城にまで完成させた。
 縄張りは内堀に囲われた姫山を中心とした平山城で、最高部を本丸、そしてその前方に備前丸、帯郭、上山里郭をつくり、背部には腰郭、そして西部には西の丸を構えている。本丸部には五層七階の大天守を中心に、西小天守、乾生天守が連立式に結合された造りとなっている。

 お菊井戸
 永正年間(1500年頃)、城主小寺則職の執権青山鉄山が主家横領を企てているのを、忠臣衣笠元信の妾(いいなずけ)で、青山家に住み込んでいたお菊が探知し、元信に知らせて城主の難を救いました。
 しかし、鉄山は浦上村宗等の加勢によって則職を追放し、一時主家を横領しました。
 村宗等を招いた饗宴の際、お菊を恋慕していた町坪弾四郎は家宝の十枚揃いの皿の一枚を隠し、お菊を責め殺し井戸に投げ込みました。
 その後、毎夜この井戸から皿を数えるお菊の声が聞こえたということです。やがて、元信らが、鉄山一味を滅し、お菊は「於菊大明神」として、十二所神社の境内にまつられました。

 天守の特徴
姫路城天守群 工事が始まった当初の大天守  この天守は、17世紀の初め将軍徳川家康の女婿池田輝政が築いたものです。城郭建築史上からいえば、望楼型天守から層塔型天守への移行期にあたり、桃山文化の代表的な建造物です。
 外は五層、内は六階と地下一階の大天守と、三層の小天守を渡櫓で連結した連立式天守で、軒隅の反転、千鳥破風・唐破風の配合、軒裏化粧、白漆喰総塗籠の外壁と相まって、類なく優雅で壮重な趣があります。
 緑濃き自然林に浮かび上がった白亜の城は、あたかも空飛ぶ白鷺にも似て、気高く非常に美しいものです。ところが、内部は粗削りの軍事構造で、まさしく日本随一の城郭です。

 市ノ橋門跡
市ノ橋門跡復元図 現在は市ノ橋門を道路が分断している 姫路城は門跡好きにはたまらないお城
 中曲輪西方材木町にあり、すぐ西方にある市之橋にちなんでこの名がつけられた。最も外濠(船場川)が接近しており、門は直接外濠の外を通じている。
 車門跡
車門復元図 見事に二重枡形の構造である
 船場川沿いに設けられた城門の一つである。中曲輪西南に設けられ、二重枡形の城門である。前に木橋がかけられ、その北に車道門があったためにこの名称がある。第一門は西向き、第二門は南向きで何れも脇門付高麗門である。内門は南向きで脇門付櫓門である。また第一門の横に番所が設けられていた。
 埋門跡
埋門復元図 歩道を圧迫している外枡形
 船場川沿いに設けられた城門の一つである。中曲輪南西隅櫓の傍らに設けられた。外門と内門はともに南向きで、中濠に土橋が設けられていた。外門は脇門付高麗門で、内門は脇門付櫓門である。南西隅に二重の埋門櫓を付し、櫓北方と東方に多門が設けられていた。
 G門跡
G門復元図 枡形に信号がついて車が往来している
 中曲輪南側の西方にあり、本町と坂本町との間に設けられた。外門と内門は南向きで、中濠に土橋が設けられていた。外門は脇門付高麗門で、内門は脇門付櫓門である。外門を入ったところに番所が設けられていた。
 中ノ門跡
中ノ復元図 歩道に石垣跡を示す色違いのパネルが?!
 中曲輪正面五門の中央にあるのでこの名がある。外門は南向き、内門は東向きで、中濠に土橋が設けられていた。外門は脇門付高麗門で、内門は脇門付櫓門である。外門の外に出番所、内に大番所が設けられていた。さらに、内門に接して単層の櫓が設けられていた。
 清水門跡
清水復元図 内枡形となっている清水門
 船場川沿いに設けられた城門の1つである。中曲輪西側北方にあり、枡形内に設けられた「鷺の清水」に因んでこの名がつけられた。外門は西向きの脇門付高麗門で、内門は南向きの脇門付櫓門である。外門内に番所が設けられていた。清水門を入って南に向かうと北勢隠門に着く。
 総社門跡
総社復元図 門の石垣の端がわかるようになっています
 この門は、総社の西門筋にあったのでこの名があり、門の形状は同じ中濠の門である中ノ門に似ていた。門には外門と内門があり、外門は南向きの高麗門、内門は東向きの櫓門であった。現在では石垣の一部を残すのみである。
 内京口門跡
内京口門復元図 学校の裏門?になっています
 中曲輪東南方にあり、京都方面に通じる道に向いて開かれているためにこの名がある。内濠に土橋が設けられ、濠が鍵型に屈曲し、外門と内門は南向きである。外門は脇門付高麗門で、内門は脇門付櫓門である。外門の内に番所が設けられていた。
 久長門跡
久長門復元図 道路脇に石垣が残っています
 中曲輪東側にあり、久長町にあることからこの名がある。外門と内門は東向きで、中濠に土橋が設けられていた。外門は脇門付高麗門で、内門は脇門付櫓門である。外門の内に番所が設けられていた。
 野里門跡
野里門復元図 かなり破壊されています
 姫路城の北東に設けられた城門、野里の出入り口にあることから名付けられた。濠が鍵型に屈曲し土橋が設けられており、外門は脇門付の高麗門で、内門は脇門付の櫓門である。また、外門は東向き、南門は北向きである。
 外京口門跡
外京口門復元図 外濠に面した門は堅牢ですね。
 外京口門は、姫路城の外濠に設けられた五つの門(外京口門、北条門、竹ノ門、飾万門、福中門)の1つで、京都方面への道筋にあるのでこう呼ばれた。
 五門のうち外京口門と福中門は山陽道の出入口にあった重要な門で、三方を濠で囲み内外二門をもつ厳重な構であった。
もとの城門は右図のようであったが、明治になって、真すぐな道とするため門や石垣をとり除き、濠を埋めた。その跡地は、教員伝習所、姫路中学校、県立姫路高等女学校などに移りかわり、戦後、東光中学校となった。
 昭和五十七年発掘調査により地下に埋もれていた石垣の一部や東西の濠を繋ぐ長さ15メートルの暗渠などが見つかった。体育館の完成後も、遺構が見られるように地下の石垣の部分は床下にそのまま保存してある。
 ノコギリ横丁
ノコギリ横丁  家屋が道に対し斜めに建ち、隣家との間に小三角状の空き地を生じ、町並みがノコギリ状に斜向して形成された。形成の理由は軍事説、地割説、方位説がありはっきりしない。
 あてまげ
現在では出あいがしらの事故に注意  姫路城の守りの一つとして道路に面して少しずれて道がついている所に設けた場所を「あてまげ」と言う。
 敵の侵攻をここで鈍らせ、はさみ撃ちにする。また死角となるため、隠れていると敵の動静を的確に把握することができる。

姫路城案内板等より

【戻る】

資料 【地図を表示する】
 

私見

綺麗に仕上がってきた大天守の屋根 真新しいアゲハチョウの鬼瓦  平成の大修理が引き続き行われている姫路城大天守。その修理工事エリアの見学会に当選しましたので、行ってきましたよ。たまにこういう特別な機会を小出しにするなんてニクイですね。少し前の和舟ツアーも当選しましたが、すっかり姫路城に翻弄されている気分です。惚れたものの弱みってやつでしょうか、しょうがないですねぇ。
 さて、何度目かの「天空の白鷺」のエレベータをあがりますと、そこでヘルメットを着用させられます。そして建物東側のドアをくぐるとそこは職人さんたちの戦場、天空の工事現場です。足場が組まれた中央に見えるは大天守の大きな屋根です。真っ白な漆喰と瓦の色とのコントラストが鮮明で、規則正しく並べられた模様のようにも見えますね。ここに滞在できる時間は20分。列を乱さずにできるだけいいポイントで撮影せねばなりません。少し緊張してきますよ(^^;。
 綺麗にデザインされなおした揚羽蝶の鬼瓦は、キャラクターグッズに使われてもおかしくないポップなデザインですね。また頂上にそびえる鯱瓦も素敵です。高さ約1.8メートル、重さ約300キロの平成の鯱は今回も左右口を閉じてるメスなんですね。いずれも完成してしまうともうこんな肉眼で見ることはできませんから、これでもかというくらいに撮影してしまいます。
大天守北側の蟇股の中の謎の家紋 平成の鯱瓦  おっと大事なものを忘れるところでした。大天守北側の蟇股の中にある謎の家紋。今回はこれが目玉なのでした。今回の工事で初めてその存在が明らかとなった漆喰造りの家紋は、池田家やその後のどの大名の家紋とも合致しない紋だそうです。どうやら厳敷雪(がんじゆき)というそうですが、これも果たしてそれであっているのかは疑問が残るようです。なんとももどかしいですが、さすがは謎の家紋です。一見すれば、沢潟(おもだか)紋かと思ったのですが、両者を比べてみると全然違いました。
 興奮の20分もあっという間。二度に見れない貴重な体験でした。工事も残すところあと約1年、早く美しい天守の姿を拝みたいものですね。今から待ち遠しいです。

一望できる西の丸 大天守の屋根の痛み 修理がはじまった大天守  平成の大修理、「天空の白鷺」こと大天守の工事に伴い、姫路城の景観は完全に別ものになってしまいました。2009年から2015年まで続けられるこの保存修理工事は、大きな箱にすっぽりと大天守を覆い隠し、また東側からは物資運搬用のエレベータが付けられており、お城が持っている雰囲気と完全に別世界のメカメカしたものとのコラボが実現されていますね。大天守の姿が拝めないのは残念ですが、しばらくはこの貴重な姿を楽しむことにしましょうか。
 私はふらっと立ち寄ったのですが、週末は込み合うかもしれません。エレベータで8階まであがるとガラス越しではありますがすぐ目の前に天守の屋根が見えています。すぐに漆喰がはがれていたり、あちこち傷んでいるのが分かり、痛々しいものがありますね。この約8万枚の瓦の葺き直しと、瓦留め、目地漆喰の塗直しと壁面修理などが予定されていますので、タイミングがよければ職人さんが目の前で作業されている様子も見ることができるようです。また視線を南側に向けてみましょう。眼下に広がる姫路城内の様子。西の丸が美しいですね。この眺望も嬉しいのですが、残念なのは写真に窓に設置されている柵が映りこんでいるんですよね。なんとかそれをフレームから外しつつ頑張って撮らないといけません。またガラスが汚れていることもあります。このあたりはもうちょっと検討していただけないかなぁ。せっかくの機会なんだけどねぇ。

真新しい駒寄 喜斎門と駒寄(北側より)  姫路城にはちょくちょく来ているのですが、気がついたら全然ページを更新していませんでした。先日は桜門橋を撮りにいきましたが、今回は喜斎門そばに復元された駒寄(こまよせ)を撮影するためです。駒寄とは漢字のまんまなのですが、馬を繋いでおくための柵のことです。現在でいう駐車場ですね。(^^;
 写真をご覧いただいてもわかるかと思いますが、かなり拍子抜けするものでした。いや忠実に再現するならばこうなったのかもしれません、はぃ。文句はないんですが、「ふぅ〜ん・・・・」て。
 ま、姫路城にまた一つ新しい見学スポットが出来たことは素直に喜ばしいことだと思います。姫路城に来られた方はぜひご覧になってみてください。

 21世紀初めての城攻めです。5時起きで7時開門に間にあうことができました。まわりは結構人が集まってきています。元旦だけは特別開放ということで無料で城内に入ることができるようになっています。そのため姫路では姫路城天守閣で初日の出を拝むのが当たり前なのでしょうか。どんどん人が集まってきており、開門を待つ菱の門前はさしずめ市民マラソンのスタート状態です。日の出時刻が7:08ですから菱の門から天守閣の最上階までを8分で登らないといけません。
青空によく映えますね。  7時に門が開放されるや一斉に人波が走りこんでいきます。通常ならすぐ左に迂回して西の丸を通るのが常なのでしょうが、ここは埋め門から「る」の門を経由して備前丸を通って天守へと向かいます。ちょうどルートを逆行しているわけですね。
 まわりを観賞することなくひたすら天守閣最上階をめざします。天守入り口でスリッパにはきかえるとひたすら階段をのぼっていきます。今日だけは通常閉ざしている階段も開放してくれているようです。しかしそれでもとんでもない人の数。ただ登るだけの一方通行ですから最上階は満員電車にいるようです。それでもなんとか東側のポジションをキープすることができましたが既に7:10分です。とっくに日が出てしまっている時間です。天下の姫路城を10分で攻め落としていることよりも、間に合わなかったか!という思いが強かったですが、当日は曇り空のため日の出を拝むことができませんでした。
 その後は備前丸から来た道をそのまま戻りました。しかしせっかくだからってことで改めて西の丸から順に順路をたどって一通りめぐってみます。西の丸を降りて「は」の門手前から天守を拝む景色は絶景です。残念ながら西側小天守が修理工事中のようで、足場が組んであり、美観を損ねているのがもったいないところです。
 しかしまぁとにかく21世紀の始まりを飾るのにふさわしい城攻めでした。

【戻る】