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平野城跡


登城日:(2005.04.30)
所在地: 神戸市東灘区御影山手1丁目
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
深田池から城があった西方を望む ◆深田池
 深田池は、もともと農村時代のため池である。深田池の名は、「フケ田」(ぬめぬめした田、泥深い田)になっていたところへ築かれたため池であることからきていると思われる。付近には同様のため池がいくつか造られており、その1つは深田池に対して浅田池と呼ばれていた。この湿地は、南北朝時代の武将赤松円心の家臣平野忠勝の居城であった平野城の東の防衛線として機能していたが、深田池一帯は公園に全面改修され、付近に残された閑静な散歩道とともに区民の憩いの場となっている。

墓地内にある平野氏の碑。「本」は本家? ◆顕彰碑
 この御影西墓地は、平成十二年(2000年)に再整備されるまでは、室町時代初頭に、御影に平野城を構えていた平野忠勝を祖とする。平野氏一党の専用墓地であった。大正八年(1919年)に阪急電車軌道敷設にあたり敷地を提供し、北側に現在規模に縮小された。平野家本家の墓は、2000年の再整備時に、中勝寺境内墓地に移された。中勝寺には平野忠勝が祀られており、寺近くには、平野氏旧屋敷の的場跡に「平野備前守忠勝参墓」がある。
 弓弦羽神社参道入り口にある水神宮は、文政十二年(1829年)に私費を投じて住吉川から灌漑用水を引いた、平野延輝を祀ったものである。
 平野氏の祖、平野忠勝は源三位頼政公の子孫で、正平年間(1346年)御影の上の山(現、御影北小学校付近)の平野城(御影村城)を構えたが、足利尊氏とその弟との争いで起きた観応の戦乱(1351年)に巻き込まれて敗れた後、郡家村(御影町郡家)に退いて農業に従事した。
 平野家は、その後江戸時代に、旧尼崎領内上席の大庄屋職となり、東は莵原郡津知村(現、芦屋市最西部)より、西は八部郡坂本村(現、神戸市兵庫区)に至る二十二個村を支配した。

『現地案内板』より

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資料
 

私見
もう1つあった墓石。じゃ「岡」って何?  阪急神戸線「御影」駅付近に平野城があったことは知っていたのですが、その位置まではよくわかっていませんでした。時間が空いたのでどこか行ける城はないかなぁと、なんとなく阪急の普通電車に乗り、梅田から三宮に向かっている途中でした。ふと北側に大きな墓石で「平野家之墓」という文字が見えました。これは!となんとなくピンと来たのでそのまま御影駅を下車、その墓地を目指しました。
 墓には上記「顕彰碑」の文章と横に平野氏の墓石がありました。なんとなくピンときた勘がうまく当たり、平野城が現在の御影北小学校あたりだわかったときは感動ものでした(笑)。
 そこから西へと歩いていく中で深田池公園にも立ち寄りました。するとその北側隅にも平野城にふれた案内板がありました。地図で見ますと御影駅北側を東西に長く伸びるような少し高台にあった城館だったのでしょうか。現在は公園、マンションなどが建ち往時を偲ぶことはできませんが、私のように偶然たどりつくこともできますので不思議なものを感じずにはいられませんでした。
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