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兵庫城

兵庫城跡


登城日:(2002.03.03→2012.08.04)
所在地: 神戸市兵庫区中之島、他
 
【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
 兵庫城跡と最初の兵庫県庁
新川運河と兵庫城本丸跡(水底) 兵庫城の碑  天正八年(1580)池田信輝と輝政父子が花隈城を攻め落とした功によって兵庫の土地を与えられてから、兵庫は、それまでの室町幕府の権力を離れ、東大寺や興福寺と兵庫の関との関係も脱して、新たに織田信長の手に入り、これを機会に池田氏は花隈城の資材も加えて兵庫城を築いた。その拠点は現在の切戸町、中之島中央市場にかけて東西、南北ともだいたい一四○メートルの規模で、周囲には幅三・六メートルの堀があった。
 古来兵庫は、源平の合戦、湊川合戦以来たびたび大きな合戦があって、そのつどひどい戦災を受けた。兵庫に古いものが少ないのもその為であろう。しかし信長・秀吉による全国統一がなってからはこの地方ではもう合戦がなく、兵庫の町は平和に栄えていった。
 兵庫城跡は江戸時代に入って元和三年(1617)尼崎藩領となって、藩の陣屋となり、明和六年(1769)幕府領となってからは大坂町奉行所に所属して、与力や同心の勤番所として明治になるまで続いた。
 新幕府は慶応四年(1868、同年9月8日明治改元)一月二十二日にこの城跡の一部に兵庫鎮台を設けたが、二月二日に兵庫裁判所と名が変わり、五月二十三日にまた「兵庫県」と改められた。つまりここが最初の兵庫県庁である。その後県庁は同年九月十八日、今の神戸地方裁判所の場所に新築移転、さらに明治六年五月現在地に移転した。
 明治七年(1874)新川運河の開墾が行われ、城跡の中心地はほとんど川底になってしまった。

『現地案内板』より

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資料
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私見
第57次発掘調査現地説明会会場 整然と並べられた石垣  荒木村重の花隈城を攻略後に、兵庫津に作られた兵庫城。花隈城の部材を持ってきたという話も伝わるこの城はかつての海城としての姿はなく、今は大変美しい新川運河やプロムナードが整備され、わずかに兵庫城跡を示す石碑が立っているのみです。そしてわずか二年後には築城者である池田信輝(恒興)は美濃の大垣に移され、兵庫城は秀吉の直轄地として、家臣片桐且元が代官としてこの地を支配し、片桐陣屋と呼ばれるようになりました。築城時の兵庫城の姿は現在に伝わっていませんが、片桐陣屋の頃には堀をめぐらし、三重の門があったと伝わっています(『ひょうごの城』神戸新聞総合出版センター刊)。
 その後大坂城が落城した元和元年(1615)には尼崎藩領となり兵庫陣屋と呼ばれるようになり、そしてさらに明和六年(1769)には幕府の直轄地として、勤番所が置かれるようになります。時の経過と共にだんだんと姿を変えていったのだと思いますが、1696年に描かれた『摂州八部郡福原庄兵庫津絵図』では詳しい城の様子はよくわかりませんが、水堀に囲われた御屋敷がちょうど本丸にあたるのですね。案内板には水堀の幅は3.6メートルとありますが、実際はどうだったのでしょうね。

転用石が多いですね 一石五輪塔のグリ石  ということで、「兵庫津遺跡第57次調査 兵庫城跡発掘調査現地説明会」にやってきました。8月4日のこの日は朝から炎天下、ほんと嫌になるほどのいいお天気です。朝10時からのスタートですが、少し早めに来てじっくりと写真撮影をします。やっぱり現地説明会って人が集まるから落ち着いて写真を撮れないんですよね。30分前集合が原則です(^^;。早速調査区「F区」を見に行きました。本丸の南東隅部分にあたる場所で、本丸東側の堀と石垣、そして馬出し部分の一部が検出してました。圧巻なのは堀の外側の石垣です。高さ1メートルでまっすぐに石の直線が露出しています。じっくり見なくてもその中に転用石が混じっているのが一目でわかります。しかもその数がものすごい・・!五輪塔や宝篋印塔の石材であることがわかるものが至るところに使われています。またグリ石としても一石五輪塔の丸い石が数十個ほどが見えていますが、実際にはどれくらい使われているのでしょうね。説明会では、付近にそれだけお寺、お墓が多かったのではという話が出ていましたが、残念ながら花隈城から持ってこられたものであるという決め手はなかったようです。しかし文亀四年と彫られた石材の説明もあり、上から見下ろすだけでしたがワクワクしっぱなしでした。
18メートルの堀幅を持つ南側の堀跡 17〜18世紀の出土品  石垣以外ではやはり堀ですね。本丸南東の「F区」で検出された堀幅は14.6メートル(八間)あり、従来言われていた3.6メートルとは大きく乖離しており、今回の調査成果が素晴らしいものとなったことを実感します。また南面の濠幅は明らかに小さなものであることがわかり、本丸を四周する水堀の堀幅は均一ではないことがわかってきました。ちなみに当日は埋め戻されていましたが、本丸北東隅となる「K区」の堀幅は9メートル(五間)でした。このあたりは絵図でも確認できますが、角がとれていますので鬼門除けなんでしょうかねえ。また、「F」区には馬出しの二重石垣が露出しています。かなり崩れていることもあり説明されないとわからない二重石垣でしたが、石垣崩落の補強をしているのでしょうか。
 次に本丸の南側にある「I区」の石垣を見に行きます。こちらにも五輪塔や宝篋印塔などの転用石が多数あり、本丸付近一帯に使われていたのだろうかと想像させてくれますね。そしてここの堀幅が18メートル(十間)です。水堀跡とわかる黒い粘土質の土が堆積しており、今でもなんだかぬかるんでいるかのように見えます。城外側の石垣は後世の積み直しということですが、大きな石が垂直に積まれていました。関係ないですが、ここの説明をしてくださった方は若い女性だったのですね。現地説明会で女性が話をしてくださるのは初めて見ましたが、いいですね(^^。
 そしてテントに戻って出土品の確認です。擂鉢、下駄、蒔絵櫛、茶碗など生活に密着したものがほとんどで、それらはすべて17〜18世紀のものばかりだそうです。残念ながら兵庫城当時のものは一つもなかったのですねぇ。うーん・・・。しかしまだ継続して調査を行われるということですので、今後の新たな発見に期待したいと思います。また、今回わかった築城時の水堀は時代を経て次第に幅を狭められ、埋められていったことがわかっています。戦がなくなった時代には不要なものだということなのでしょうね。しかし、明治になって新川運河の開削によって、中心部の多くが削られてしまい、水底に沈んでしまうというのも皮肉なものを感じます。綺麗な水面を湛える新川ですが、まだ見ぬ兵庫城の姿を想像して・・難しいですが・・・。

清盛くん  約二年という短い期間で築城、城下の整備を行った池田恒興ですが、実は兵庫城の周囲に外郭をなし、土塁と濠をめぐらせていたことも知られています。残念ながら現在は残っていませんが、JR兵庫駅近くの福厳寺前に当時の土塁、都賀堤(とがのつつみ)についての案内板が設置されていますので城とあわせてチェックしてみてください。北方から西国街道を使って湊口惣門をくぐり兵庫の町中に入ると、西へと右折して柳原惣門をくぐって西の須磨方面へと抜けていくという動線を整備し、兵庫津全体を城下町とする縄張りとしたのが恒興なのかもしれないのですね。今まであまり意識したことがなかったのですが、兵庫城を見ていくうちに次第に池田恒興個人への興味も湧いてきますから、「お城」は楽しいものですね。今やすっかり清盛が主役となってしまっている兵庫津近辺ですが、恒興クンのキャラクターも作ってあげていただきたいなと思うのは私だけでしょうか。
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