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石弾城跡 登城日:(2001.12.31) 所在地: 加古川市加古川町木村 |
歴史 |
城主は、大井三樹伊豫守宰任従五位左京亮で、暦応二年八月三十日雁南荘地頭職を給わり、この城に居を構えた。次宰の五男に雁南右衛門四郎勇という者がいて、永和元年五月五日父の跡を継いだ。正六位に任じられ、主馬助と号し赤松氏に従っていた。この勇の長男に雁南行部太郎長という者がいて、亨徳三年家督を継いで木村源五郎と号した。父にしたがって武功があったが、康正元年父勇討死の後、なおこの石弾城を固め守っていたが、長禄元年三月、山名宗全に攻められ討死して遂に落城した。
◆泊神社 神代に伊勢神宮の御神体の一つである御鏡がここに泊まり着いたことから泊神社が起こったといわれています。祭神は、天照大神・少彦名神・国懸大神です。現在の社殿は、承応二年(1653)宮本武蔵の養子、宮本伊織が改築した時のものといわれています。一歩足を踏み入れると境内は広く、南北朝時代の石弾城の石垣と思われるものや宮本伊織寄贈の花崗岩製の灯篭市指定文化財の36歌仙図絵馬が残っています。 ◆泊神社御由緒 神代に天照大神が天岩戸にお隠れになったとき、大神の怒りを解く為に群神事計り御鏡を造った。後に一つは伊勢神宮にまつられ、一つは海に流された。大和時代にそれが泊まり着いた所に檍の木が有り檍原泊大明神としてまつったのが当宮の起こりである。 大昔は此の辺りは海浜であり、泊の神号は以上から由来する。 飛鳥時代には聖徳太子が鶴林寺を建立の際、側近の棟梁の泰河勝が紀伊の国から自身の氏神である国懸大神を勧請し社殿を建立した。南北朝時代には石弾城が築かれていた。降って承応二年(1653)には宮本武蔵の甥で養子の宮本伊織が小倉藩筆頭家老に就き故郷の氏神である当宮の荒廃を嘆き武蔵の供養の意を込め浄財を寄進し全社殿一式を再建した。以後宮本家氏神とし一族より崇敬された。社格正一位、社領十石を給わる。明治には郷社格に列せられる。主祭神は天照大神、国懸大神、少彦名大神、末神は稲荷神、八幡神、菅神等諸願成就神徳 『石弾城跡案内板』より
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資料 |
私見 |
今日は加古川市内のかなりマイナーな城跡を巡っていたわけですが、そのなかでも実はこの泊神社である、石弾城跡にかなり期待していました。というのも某雑誌で加古川観光コースの一つとして「史跡廻りコース」というなかにこの泊神社が入っており、かっこづけで石弾城跡となっていたからでした。 北側から神社に到着し、低いですがなんとも古めかしい石垣が妙に存在感を感じさせてくれます。そしてそのまま境内へ。 大晦日ということもあって神社は早くも正月の装いでのぼりがたてられ、城跡として写真に残すのがどうも気が進まないのですがまぁしかたありませんね。その分綺麗に掃除され遺構がはっきりと現われているのかもしれませんし・・(ごみとして片付けられてしまったら最悪ですね)。 境内には城跡を示す板碑と案内板がありました。が、驚いたのは城跡の案内板ではなく、神社の由来を説明した案内板のほうでした。なんと城当時の石垣があるみたいです。確証はないですが、到着時に感じたあの石垣でしょうか。石垣という言葉だけで妙にわくわくしてしまいます。それにここは宮本武蔵と関係があるということで意外な繋がりがあることも分り、このことをつっこんで調べてみるのも面白いかもしれませんね。
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