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一ノ谷城跡登城日:(2009.06.07) 所在地: 神戸市須磨区一ノ谷町 |
歴史 |
寿永三年(1184)播磨と摂津の境界である一ノ谷一帯で源氏と平氏の合戦が行われた。平氏はここに城を構え、広大な領域にわたり『城郭』を形成していたという。義経による鵯越えのエピソードも良く知られるところであろう。東に生田の森、西に梅ヶ鼻、北に三草山に砦を築き防備に当った。 この像は、ここより山上へ三百メートルの山の中にある寄手墳・身方墳の側に人知れず寂しくあられたのを平成十二年十二月にここにお移しした。なぜこの像が山中にあったのかは不明である。 和宮様は、仁孝天皇の第八皇女で六才にして有栖川熾仁親王(別荘が後の舞子ビラ)と婚約をされ、むつまじく育たれた。しかし幕末に、朝廷と幕府の関係を改善し国論を統一せしむるため、幕府の強い要請で和宮様は有栖川熾仁親王との婚約を破棄し、十七才で徳川幕府の十四代将軍家茂に嫁がれた。 惜しまじな 国と民との 為ならば 身は武蔵野の露と消ゆとも その後、有栖川熾仁親王総指揮の官軍が江戸幕府へ総攻撃をかけようとしたが、和宮様は嘆願し、江戸の町を戦火から救われた。 昭和三年に神戸市各小学校に二宮尊徳像を寄贈した中村直吉氏は外遊で西欧の女性たちの質素で勤勉な姿にふれ、日本女性の伝統ある美徳保持をいつまでも願い、昭和九年に県一(神戸高校)、県二(夢野台高校)、市二(須磨高校)の三女学校に和宮様を寄贈した。この像は、戦争中の金属供出から免れたその内の一体だと思われる。他の像と比べ憂いを含んだ物悲しい少女の雰囲気が表れている。 この度、多くの方々のお力添えで、ここ安徳花壇の側に和宮様をお迎えすることができたのは非常に喜ばしい限りであります。 源平の戦で源氏に追われられた安徳帝は平家一門に奉じられて西走の途中、一ノ谷に内裏を置かれたと伝えられている。この地に安徳帝は寿永四年(1185)下関壇ノ浦の戦にて祖母二位の尼(平清盛の妻・建礼門院の母)に抱かれ、八才で海中に身を投じられた。 『一ノ谷城跡案内板』より
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資料 |
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私見 |
「摂津名所図会」や「須磨史蹟」を見ると、内裏蹟のところが一ノ谷城跡だとしています。この地は須磨の上野と言われ、かつては古松が二十本ほどの不毛の地であったようですね。とは言ってもここだけ来て、一ノ谷城に行ったというのは違いますよね(^^;。「源平盛衰記」にあるように『口は狭くして奥広し』という一の谷は、周辺一帯の広い一帯に延びた防衛ラインを含む表現だったのでしょう。鉄拐山と鉢伏山との地形をうまく利用し高台に城戸を設けた物々しい陣構えを想像しながら、須磨の海を見渡して・・いやそこまでの想像は難しいですね。
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