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加古川城跡
登城日:(1999.01.16)
所在地: 加古川市加古川町本町、称名寺
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
加古川城跡の称名寺 加古川は鎌倉時代には播磨の守護所であったようで、初代城主は糟屋(谷)有数とされています。その後、天正五年(1577)羽柴秀吉が播磨攻めを行った際には軍議の場を「糟屋の館」で開いたとされています。館と言われた通り、当時の加古川城は館城でした。秀吉はこの加古川城を三木攻めの際の兵站基地としました。十二代城主、糟屋武則は秀吉の配下として賎ヶ岳で功名を上げ、有名な『賎ヶ岳7本槍』の一人となっています。が、その子宗孝は大阪夏の陣で戦死し、城は破却されました。

参考資料『日本の名城・古城事典』TBSブリタニカより

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資料
 

私見
かろうじて案内板がありました この加古川城はまわりの城とは違って、秀吉軍の軍門に下ったようですね。この加古川城があの『賎ヶ岳7本槍』の一人、糟屋武則の居城だったとは、地元なのに全然知りませんでした。なんか、うれしいような悲しいような心境です。
寺には一切遺構がなく、まったく残念でした。
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