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霞ヶ城跡
登城日:(2005.02.13)
所在地: 多可郡中町間子
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
南端にある堀切です。  霞ヶ城(森本城とも)は、南北朝期より得平氏が居城しており、九条家の安田荘経営に対しては少なからず影響力を発揮していたようである。また南朝側との合戦があった時には法楽寺まで出陣していっている。しかし、嘉吉の乱(1441)に守護赤松氏とともに没落してしまう。
 大永年間(1521〜27)得平源太は赤松播磨の子徳法師に従い在田荘に入部しようと試みるが、徳法師は討たれ、得平氏はそのまま在田氏に属することとなった。やがて霞ヶ城は在田氏のものとなり、天文年間(1532〜)以降に現在の形に改修が行われたようである。
 永禄九年(1566)の別所氏による在田氏併合の後は廃城となってしまう。

『播磨・水尾城の調査研究』西脇市教育委員会刊参照

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資料
 

私見
主郭北面にある巨石群  霞ヶ城跡へ行くにはまず車を観音堂手前の児童公園をすぎたあたりのスペースに駐車し、西側の神社方面に下りていきます。すると右手に地元小学生による「と山口」という看板があります。「登山口」ってことなんですね(笑)。真剣にわからず1日無駄にしてしまいました。
 さて、登城口にある看板同様のものが時折おかれており、小学生の字が勇気付けてくれます。最初は倒木だらけで大変ですが、すぐに平坦な道が続きます。やがて尾根上に出ると突然急斜面となり、虎ロープのお世話になって登っていくことになります。看板といい、よく整備してくださっているなと地元の方に感謝です。
北郭空掘内から石垣の写真  が、城域の最南端の堀切部分あたりからシダが生い茂り、虎ロープもなくなってしまいました。一番険しい部分を慎重に岩にとりつきながらよじのぼります。そして今なお元気に生え揃ったシダを踏み分けて南側の郭を2つ越え、主郭に到着しました。ここまでは削平地と堀切が1つあるだけですのでここで引き返したら霞ヶ城の3割も楽しめないままです。迷わずさらに奥を目指します。浅香山から南に伸びる尾根上に展開する霞ヶ城はざっくり言うと南側の削平地が並んで存在する南郭部分と、空掘や石垣が残る北郭部分の2つとすることができます。一貫して南から通路とも帯曲輪ともとれるものが続いているのが特徴的です。
 さて、南郭を過ぎさらに堀切を越えると南郭の北面の随所にくずれてしまっていますが巨石を確認することができます。さらに期待を膨らませつつ北郭へ向かいます。ここは南郭と違い、複雑な縄張りになっていますね。出丸であったものを戦国期に改修されたようですが、櫓台を中心に郭がめぐらされ、西面には空掘、そして竪堀がつくられています。空掘の壁面には石垣遺構もあり、南郭とは完全に別の城のようです。最北端にも空掘があり、かなり北や西に対して防備をしていたのでしょうね。
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