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賀集館跡 登城日:(2004.07.19) 所在地: 三原郡南淡町賀集賀集 |
歴史 |
賀集館は、その名の通り淡路の国人賀集氏が居館していた。「護国寺文書」によれば賀集氏は室町時代にその名を見ることができる。 一方で、永禄年間(1558〜1570)以前に三善備後守が賀集荘にあり三好氏に属した。やがて備後守は賀集氏を名乗るようになり、孫の賀集刑部の代になると鍛冶屋の西方の山頂に城郭を築いた。さらに刑部の弟、杢助盛政は賀集八幡宮の南に移住した。いずれも伝承の域を出ないものである。 備後守が最初に居住していたとされる場所は「備後土居」と呼ばれており、ここから西へ約200メートルの先には万福寺があり、同寺境内の墓地には賀集氏の墓がある。 『日本城郭体系12』新人物往来社刊参照
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資料 |
私見 |
ここは手元の資料とはかなり環境がかわってしまっているようで、あくまで比定地とさせていただきたい。万福寺から東方は田園がひろがるなか、ぽつんと一つの鬱蒼とした藪地があることに気づきました。規模にして約6〜7メートル四方くらいでしょうか。藪の中には1メートルほどの土盛りがあり、土塁跡のように見えます。また、その西側の田んぼはコンクリート製の細い通路をはさんで大きく段差が落ち込んでいるのが確認できます。ここをかつての堀跡と見れば「なるほど」と思えてきます。 場所は鍛冶屋地区とほぼ境にあると思いますが、淡路島南部はこういった館跡が平地に数多く存在していたんだなぁと実感しました。
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