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松帆台場跡


登城日:(2006.01.29)
所在地: 淡路市岩屋
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
松帆台場に残る火薬庫跡 胸墻土塁上にある施設 ◆松帆の浦台場跡
 文久三年七月(1863)阿波藩領主蜂須賀候は徳川幕府将軍家茂の命でこの地に明石海峡を通る外国艦隊を撃退するための大砲を据え一大砲塁とした。砲塁は真北、明石天文台の方向にむきM型に土塁が築かれている。海に面した土塁の基礎部分は高さ約2メートルの花崗岩の切石で築かれており、その上部は50度の急傾斜で粘土が盛られている。石塁の高さは約9メートル、土塁の最上部は巾4メートルあり、土塁の内側は頂上部から1〜2メートルが切り取られて防御壁となっている。さらに二段低くなっていて、この上部に大砲を据えつける場所となっていた。
 警備係は阿波藩中老職の寺沢男也以下70名の藩士と附近の村から260名を併せ四中隊を編成し、台場の中央部の広場で連日練兵を行った。また台場の中には分詰所、兵卒休息所が棟を連ねていた。
 この高台はその当時の砲塁跡で、三方を石垣で囲んでいるこの場所は火薬所の跡であります。

『松帆台場跡案内板』より

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資料
 

私見
松帆台場に残る火薬庫跡 台場跡の東側は公園化されています。  松帆台場(松尾台場とも)は、岩屋地区に築造された台場のうちで一番大きなものでした。現在は神戸製鋼の保養所「ゆうなぎ荘」が建っているのがM字型土塁の左翼部にあたります。私有地ですので探索される方はくれぐれも心得て行動してください。
 さて台場跡は保養地が建っているところから東に火薬庫跡があり、その先には途切れ途切れになった土塁が伸びています。また二重構造になっている箇所もあり、台場全体の規模は東西530メートル、南北250メートルというかなりのものですね。台場面積もそうですが、私には土塁の上に何階建てもの施設が建ってしまうことのほうが驚きでした(笑)。
 今回はあまり時間がなかったので胸墻基部の亀甲積の石垣も確認できませんでした。今度またじっくり再訪しようと思います。
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