Check |
三木城跡登城日:(1998.09.27) 所在地: 三木市上の丸町 |
歴史 |
室町時代の末期は、世はまさに戦国の時代でした。ときは天正6年の春より天正8年の正月にわたり、ここ東播の平野にも血の川の屍の山を築く大修羅場が展開され、攻めるのは当代随一の知将、羽柴秀吉であり、守りは東播八郡の豪族、その名も高い青年城主、別所長治でした。
織田信長が天下統一の大業を企て、その命を受け中国征伐の統帥となった秀吉は、濃尾の大軍を率いて攻めてきました。別所方は勇敢な中国武士を督励してこれに当り淡河、加佐、大村などで奮戦しました。 東播に八群を領有し、さらに摂津の一部を有し、出城と称するもの三十余りを構え、または砦など百に余るその一族や旗がしらをもって戦った別所長治もついに城を包囲されて飲む水、食糧も絶え、軍馬まで食べ尽くし、ついに三木城籠城実に二十二ヵ月、長治は義を守った家来のために、また哀れな婦女子や庶民を思い一族兄弟は天正8年1月17日に悲しくも自害しました。 今の世も三木市民は当時の別所公の遺徳を讃え、毎年ご冥福を祈り別所公奉賛会では盛大な祭典を天主跡にて催して別所公一族の冥福を祈っております。 『三木城跡案内板』より
|
資料 |
【地図を表示する】
◆年表:
|
私見 |
実家の近所だったので場所は分かってたんですけど全然いったことがなかったんですよ。今日行ってみてこんなに大きかったのかと驚いてしまいました。それに三木市民の力の入れ様ははんぱじゃないですね。案内板の文章といい、祭りといい、いまだ別所氏を慕ってらっしゃるのでしょうね・・ また、付近の寺などを回ってみるとそこらかしこに関連話が残っています。天守跡にある、辞世の句を彫った石碑と、三木城の興亡を描いた絵図がかつての様子を想像させてくれます。
|