
武庫城の詳細は不明である。が鎌倉時代には荘園として栄えており、当時の様子を書いた案内板が置かれている。
◆武庫荘(むこのしょう)
鎌倉時代から戦国時代にかけて、このあたり一帯には武庫荘と呼ばれる荘園(貴族や寺社などの私的な所有地)がありました。荘園として成立した時期ははっきりわかっていませんが、鎌倉時代に順徳天皇の中宮であった東一条院立子(1192〜1247、九条良経の娘)の寄進によって春日社兼興福寺領となり、九条家にゆかりのある興福寺大乗院門跡がその管理にあたっていました。室町時代以降は伊丹氏や太田氏など近隣の武士が代官として荘園経営の実務を握るようになり、興福寺の支配は次第に後退していきましたが、戦国時代まで同寺領荘園として存続しました。
室町時代の興福寺の記録によると、武庫郡内の各所に田地があったため武庫荘と号したとあり、当時の武庫荘内にはいくつかの村落が散在していたと考えられます。江戸時代に武庫庄村と呼ばれていた武庫之荘本町のあたりもそのような村落の一つであったとみられますが、急速な都市化とともに周囲の景観は大きく変貌し、残念ながらその頃の様子を偲ばせるものはほとんど残っていません。わずかに、このあたり一帯の「庄ノ内」や「屋敷地」「ゲシ」という旧地名や、鎌倉時代のものとみられる十三重石塔の残欠(笠部7個、但し上部2層と下部5層は別のもの)にかつてのなごりを留めています。