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野村城跡 登城日:(2002.09.14) 所在地: 西脇市野村町 |
歴史 |
野村城の初代城主は上原俊房であり、弘安六年(1283)にこの地に居を構えたといわれている。上原氏信州(長野県)の諏訪氏の一族で、鎌倉幕府北条氏に仕えた。弘安三年(1280)蒙古軍が壱岐、対馬を侵し長門に攻め入った時、北条時業が播磨に派遣されたがその時に随行してきたのではないかと言われている。
三代則重は赤松円心に従い武功を挙げ、また五代重隆は明徳の乱に活躍して功名をあげている。さらに六代秀重は嘉吉の乱に赤松満祐を諌めた人物として知られている。 その後、十一代城主上原左京亮兼親は永禄二年(1558)、別所重棟の夜襲を受け野村城は落城し、上原兼親は自害した。 三木市教育委員会刊『別所氏と三木合戦』参照
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資料 |
私見 |
野村城は加古川が脇に流れるところにあり、野村橋がかかっている場所よりすぐ南に位置しています。以前は城跡に野村妙見堂が建てられていたようですが今はそれもなくなってしまっています。平成元年に行われた発掘調査では丹波焼きのすり鉢や石臼などが出土したり、平成六年から八年にかけて行われた西脇市教育委員会の発掘調査では土釜、土鍋、瀬戸美濃焼き、丹波焼き甕などが出土されたようです。かなり優雅な暮らしをしていたのでしょうかねぇ。 郭があった平坦な場所と川との間にある低くなっているあたりは堀跡だったようです。でもその先に天嶮の堀とも言うべき加古川の本流が流れているのに堀をつくるんですね。。でも郭のある平地の南側にも一段低くなった畑があるのですがここも堀跡だったのではないのかなと思いました。 妙見堂は完全になくなっていますが、上原大将軍と大きく書かれた石碑(墓石?)が城主である上原氏をまつっているのがかつて城跡だったという立派な証明がされているとでも言いますか、予想以上で満足でした。
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