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小佐城跡
登城日:(2004.08.08)
所在地: 養父市八鹿町小佐字石堂
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
小佐城跡とされる洞泉寺  小佐城の詳細は不明である。一説によると承久の乱(1221)以前に小佐の地頭職であった、朝倉高清の弟小佐二郎大夫盛高の子、小佐新大夫頼重であったとされている。乱後には小佐氏は地頭職を追われ、代わって尼常陸局が任じられた。やがて弘安八年(1285)には領地は四分割されてしまう。
 そのうちの一人が伊達五郎三郎であった。伊達氏はやがて元弘の乱にあたって後醍醐天皇に従って戦い、自領を安堵される。が、元弘の直前には当地は実は同族の立石五郎のものであったようで、立石の訴えが通り地頭になることができた。
 以後、これを不服とする伊達氏との抗争が激化したために居館を城郭化したようだが、結局は伊達氏に敗北。小佐城は伊達領となった。

『日本の中世城館調査報告書集成15』東洋書林刊参照

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資料
 

私見
小佐城跡とされる洞泉寺  小佐城跡は、八鹿町北西部にあり県道267号線の北に位置する洞泉寺が建つあたりと言われています。比高20メートルの高さは車でそのままあがることができます。以前は保育所もあったようですが現在はありません。傾斜の途中にその跡っぽいのが残っていましたし、お寺の境内のすみにひっそりと遊具が置いてあるのが妙でした。(^^;
 何より私にとっては、但馬の片隅に伊達氏の名前が出てきたことが驚きだった城跡でした。
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