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立石城跡登城日:(2009.02.15) 所在地: 三田市寺村町 |
歴史 |
立石城の詳細についてはあまりわかっておらず、山崎左馬介恒政が永禄七年(1564)に築城したとされているが諸説ある。山崎を織田信長の家臣、山崎堅家とする説もある。又、天正六年(1578)の羽柴秀吉による三田攻めの際の足がかりとして築城した陣城とする見方もある。
『三田市史』三田市刊参照
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資料 |
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私見 |
立石城は、数年前にも訪れたことがありましたが藪をかき分けつつでしたので遺構がよくわからず退散しました。今回は急に思い立っての登城となります。南側から近づいていくとなんとも見事な、いや立派すぎる墓地ができあがっていました。そういえば以前は木々を切り倒して、整地していたのを思い出しましたよ。こんなにいろんな動物の石像が迎えてくれる(^^;お墓になっていたとは・・。 それはさておき、立石城はそこから池を挟んで西向かいの尾根上にありました。新しい墓地の敷地内を事務所の方に挨拶しつつ通り過ぎ、昔からある地元の墓地脇を西へと進んでいきます。立石城があった場所は地図でみても南、西、北西と周囲に高い山が建ち並んでいますので、眺望は望めない立地にあったのですね。北から北東にかけてのみ開けていますのでどういう意図でここが選ばれたのでしょうか。 さて城域ですが、微妙なのでよくわかりません(^^;。以前も藪のせいもあって散策をやめましたが、今回は大丈夫です。手に三田市史の縄張り図もありますのでよくよく見ていけばそれなりによく遺構が残っているものだと思います。堀切、横堀、そして土橋・・・。この城で土橋をいくつ見たのでしょうか。山城でここまで土橋を多く使われ、そして残っているのは珍しいですね。でもやっぱり・・・遺構が微妙すぎます。埋もれてしまっているのもあるかもしれまえんが、最初から曲輪の作りが弱いように思いますね。 三田市史に書かれてないと気付きませんでしたが(また土橋かと)、横堀を止める土塁が二郭と主郭との間にありましたが、あれは加古川市の野村城にある閉塞土塁と同じなのでしょうか。いずれにしてもこの立石城は縄張り図を見ながらでないと、なかなかわかりづらいです。私だけかもしれません(^^;
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