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鶴島城跡
登城日:(2004.07.19)
所在地: 三原郡南淡町福良
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
城域東部にある休暇施設 周りは穏やかな海面が広がります  鶴島城は、源平争覇の頃、加茂冠者義次と淡路冠者義久の兄弟が在城し、平氏に対抗して篭城していたと伝えられている。やがて平教経が船で押し寄せ、城は落城した。のちに冠者義久の子孫が福良氏を名乗り、城を修復したとある。(『源平盛衰記』)
 「護国寺文書」には、長禄二年(1458)に福良蔵人太夫政貫、文正元年(1466)と文明九年(1477)に福良勘解由左衛門政幸が在城していたという記述もある。
 のちに、福良氏は相模守義基の時に福良を離れ阿波の勝浦に移住したと伝えられている。そして福良出羽守長政の代に長政は細川氏に仕え、細川持隆の妹を妻に迎え、三好軍と戦い討死にした。

『日本城郭体系12』新人物往来社刊参照

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資料
 

私見
 鶴島城跡は、南淡町福良にある岬の突端上にありました。ちょうど国民休暇村施設が建つあたりを含め、頂上一帯です。標高80メートル、南面が特に険しい崖となっておりなかなかの要害であったのでしょう。現在は穏やかな海面を拝める安息の地ですので、かつての激しい攻防は跡形もないかもしれません。
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