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八上城跡 登城日:(2000.03.18) 所在地: 篠山市八上内 |
歴史 | ![]() ![]() 八上城は永正期より約五十年、波多野秀治になって完成された丹波支配の拠城である。 天正三年から天下統一を目指す織田信長の命による明智光秀の丹波攻略は熾烈を極め、前後十一回にも及ぶという。 ついに利あらず、和議と称する謀略により秀治、秀尚兄弟は殺され、城中の全将兵は城に火を放ち自刃して落城、時に天正七年のことである。 落城に伴う悲話も数多く石垣や曲輪の跡、城下町等の名残に秘められているようである。 慶長十四年、松平康重城主の時、篠山城が天下普請で構築され、八上城は廃城となった。 ![]() 篠山城主青山忠裕公が幕府の老中であった、文政年間(1818〜30)のころ、毎年春と秋、江戸両国の回向院広場で上覧大相撲が催されていました。 ある年の春場所、篠山から頭取高城市松が力士八名をつれて現われ全員勝ち続けました。負け嫌いの忠裕公は大変喜んで、褒美をやろうとされましたが、どこにも見当たりません。 調べてみるとなんと皆領内のお稲荷さんの名前でした。石心寺の裏に祠があったが春日神社内にまつられています。農作や勝利を祈る神です。 『八上城跡案内板』より
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資料 |
私見 | ![]() そして10分ほどで三の丸、二の丸へと到達しました。もうこのへんに来ると緩やかな傾斜が続き歩きやすくなっています。すぐ目の前には本丸跡が広がっています。波多野秀治公の大きな碑があるだけでなにも遺構はないようだと感じました。 が、ひとまわりしてますと、登ってきた反対側に手で土を少し掘り起こしたような跡があります。「もうマナーの悪いやつがいるなぁ」と思ってその掘り起こした跡を覗いてみますと、そこには1mほどの石積みが顔を出しているのがわかりました。どうやら本丸の礎石のようです。なるほどここで波多野秀治は十一度にも及ぶ明智光秀の来襲を迎え撃ったのでしょう。落城を現代まで語り継いでいるかのような石積みにちょっと感動を覚え、そのままぐるっと本丸跡を一周してから帰ろうとしていますと、隅にブルーシートでテントのようなものが2つつくられているのが目に入りました。「おぃおぃ誰やねん。こんなところに住んでいるのは」とホームレスな方の家かと思いましたが、よく見ると小さな木札がついています。『簡易トイレ』。驚きです。山頂の本丸の遺構を壊してまでつくられていたのはトイレだったのです。しかも二つも。おそらく男女それぞれのものなんでしょうか。私はそれ以上近づくのをやめ、城を後にしました。しかし・・・それにしてもあまりにも簡易すぎるその構造にはほんと驚かされましたよ。
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