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養宜館跡
登城日:(2001.02.10)
所在地: 三原郡三原町八木養宜中
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
小さな碑がたてられています  養宜館は、大土居と呼ばれ、南北朝から室町時代にかけて淡路を支配した、守護大名細川氏の居館であり、公衛(守護所)であった。
 細川氏の初代帥氏は足利尊氏の命をうけ、歴応三年(1340)淡路に入り、宮方の宇原兵衛らを立川瀬の戦で破ってこの館に入り、以後、7代約八十年間淡路を支配した。
 館は、ほぼ平坦な微高地に周濠を掘り、その土で土塁を築いた長方形のプランをもっており、もとは鎌倉時代の淡路守長沼氏の居館跡であったとも考えられている。
 永正十六年(1519)7代尚春が阿波で三好勢に謀殺され間もなくこの館は廃止された。
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資料
 

私見
想像以上に残る土塁  洲本市から国道28号線を走ってきて、「養宜」の看板が出ているところを右折、しばらくいって「鳥井」のバス停がある交差点を右折すれば養宜館跡はすぐそこです。館跡のあたり一面は平野部が広がっているのですが、館跡だけが際立って目だっているのがすぐわかります。
 約2mほどの高さの土塁が延々と数十メートルにわたって残されているのです。しかも館跡の東部と北部にL字型に確認できます。おそらく往時はすっぽりと覆うようにして土塁が館を守っていたのでしょうね。資料によるとその土塁の一回り外側には5mほどの幅を持つ濠がめぐらされていたようです。でも江戸時代の資料によるとこれでもまだ防備が不充分であったようです。『味地草』それでそこを補うようにして近くの山々に前山城、上田城、柿の木谷城がつくられ、淡路の守護の権力が守られたのですね。
 しかし、淡路でここまでしっかり防備を固める必要があったのかなぁ・・。
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