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笠間城跡登城日:(2010.05.28)所在地: 笠間市笠間 |
歴史 | ![]() ![]() ![]() ここ佐白山は、「お城山」ともよばれ、市民に親しまれている。それは今から七百数十年の昔、鎌倉時代に笠間地方初代の領主笠間時朝によって、十六年の歳月を費やして築かれた山城があり、明治の始めまで約六百年間、地方政治の中心地であったからでもある。 城の地積は、およそ一万六千平方メートルと推測され、天然の地形を巧みに利用して、「三の曲輪」「二の曲輪」「帯曲輪」「殿守曲輪」を設け、曲輪には白壁の塀をまわし、出入口を城門でかため、要所には「宍ヶ崎櫓」「八幡台櫓」「殿守櫓」を配置し、守るに易く攻めるに難い要害堅固な山城であった。今は苔むした石垣、礎石などが、ありし昔をしのぶようすが残るのみである。想を江戸の昔にはせれば、緑なす木の間がくれに遥かの地から望み見た城の城壁、とたたえるにふさわしい名城そのものでもあった。 ![]() ![]() ![]() この建物は元八幡台に据座していた物見櫓で、正保二年浅野長直が播州赤穂へ国替えとなる前修復されたと伝えられているが、明治十三年当山寺号復活の念檀頭園部清兵衛等の尽力で払下げを受け、原形のまま山頂からこの地に移築されたものである。 以来当山所有の仏堂として七面大明神、三十番神、鬼子母神の三尊神が奉祀され通称七面堂と呼ばれ親しまれている。 然るに太平洋戦争によって、城郭建造物としては県内唯一のものとなってしまったため、昭和四十四年十二月一日県教育委員会はこれが保存の必要を認め、文化財保護条例によって正式に茨城県指定文化財に指定し、次で昭和四十七年四月県補助事業として修理を施すこととなり、市当局当山檀信徒並びに市民有志協力の下、四十九年三月まで二ヶ年を費やして完成した。 ![]() 義挙の精神の源流は関東に尚武の気風をもって鳴った当地に移って三百三十年の記念すべき年にこの銅像を建てるものである。 昭和四十七年十二月十四日 大石内蔵助良雄銅像建立委員会 『笠間城跡案内板』ほか
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資料 |
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私見 | ![]() ![]() ![]() 登城道は階段状になっていて、また足元の草もありませんので苦労なく登っていくことができます。途中で車道と合流しましたけどまだ上にまで車で行けたの?いや、まぁいいでしょう。本丸はすぐ上にありました。 いきなり視界が開けるようになると明らかにそこは城跡でした。宍ヶ崎櫓跡からまっすぐ進むと八幡台櫓に続く土塁がよく残っています。またそこから見下ろす本丸も広大な面積であったことが分りますね。ここから北へ降りていくと段々と郭が続くのですが、後世の破壊により形状は変わってしまっているようです。 ![]() ![]() さらに天守台の奥に行くと、巨大な岩がごろごろしてました。まるで巨石を祀る山岳信仰のような印象も受けますが、これだけの石を有しているからこそ石垣のお城ができたのですね。 そして最後に忘れてはいけないのが、下山したあと真浄寺に向いましょう。ここには笠間城八幡台櫓が移築されているのです。お寺には似つかわしくない立派な櫓ですねぇ。貴重な遺構です。大事にしていっていただきたい。
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