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笠間城

笠間城跡

登城日:(2010.05.28)
所在地: 笠間市笠間
 
【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
関東では珍しい石垣の笠間城 笠間城、本丸  笠間城は、元久二年(1205)生田坊と徳蔵寺が寺領をめぐって対立を激化させている中、生田坊から要請を受け出陣した宇都宮軍を率いた笠間時朝によって堀と土塁を構築された城が築かれたのが始まりであるという伝承がある。以後笠間氏は中央文化を取り入れつつ笠間を治めていたが、十七代綱家の時、宇都宮氏を裏切り北条氏についたため、天正十八年(1590)豊臣秀吉の命で討伐され、滅亡した。以後は宇都宮、浅野、蒲生各氏が領有後、慶長六年(1601)以後は松平康重、小笠原吉次、松平康長、永井直勝、浅野長重、井上正利と目まぐるしく城主が交替してきた。延享四年(1747)牧野貞通が延岡から入封すると明治維新まで牧野氏が笠間藩主として続いた。

 笠間城について
 ここ佐白山は、「お城山」ともよばれ、市民に親しまれている。それは今から七百数十年の昔、鎌倉時代に笠間地方初代の領主笠間時朝によって、十六年の歳月を費やして築かれた山城があり、明治の始めまで約六百年間、地方政治の中心地であったからでもある。
 城の地積は、およそ一万六千平方メートルと推測され、天然の地形を巧みに利用して、「三の曲輪」「二の曲輪」「帯曲輪」「殿守曲輪」を設け、曲輪には白壁の塀をまわし、出入口を城門でかため、要所には「宍ヶ崎櫓」「八幡台櫓」「殿守櫓」を配置し、守るに易く攻めるに難い要害堅固な山城であった。今は苔むした石垣、礎石などが、ありし昔をしのぶようすが残るのみである。想を江戸の昔にはせれば、緑なす木の間がくれに遥かの地から望み見た城の城壁、とたたえるにふさわしい名城そのものでもあった。

 茨城県指定文化財 旧笠間城八幡台櫓
移築された八幡台櫓 八幡台櫓跡  笠間城は藤原時朝によって今を距る七百四十年余り前の文暦元年佐白山頂上に構築され、天守閣をはじめ八幡台、宍ヶ崎の両櫓等を備えた要害堅固を誇る山城として、十三代の城主等により七百余年受け継がれて来たが明治維新の際廃城となった。
 この建物は元八幡台に据座していた物見櫓で、正保二年浅野長直が播州赤穂へ国替えとなる前修復されたと伝えられているが、明治十三年当山寺号復活の念檀頭園部清兵衛等の尽力で払下げを受け、原形のまま山頂からこの地に移築されたものである。
 以来当山所有の仏堂として七面大明神、三十番神、鬼子母神の三尊神が奉祀され通称七面堂と呼ばれ親しまれている。
 然るに太平洋戦争によって、城郭建造物としては県内唯一のものとなってしまったため、昭和四十四年十二月一日県教育委員会はこれが保存の必要を認め、文化財保護条例によって正式に茨城県指定文化財に指定し、次で昭和四十七年四月県補助事業として修理を施すこととなり、市当局当山檀信徒並びに市民有志協力の下、四十九年三月まで二ヶ年を費やして完成した。

大石内蔵助の銅像  大石内蔵助良雄を統領とする赤穂浪士の義挙は天下に喧伝されて知らない人はない。その主浅野公が父子二代に亘って笠間城を領有し、良雄の祖父良欽が家老として此の地に住したことを知る人は寡ない。而してこの銅像建立の地こそ浅野藩邸を経営した由縁の地である。
 義挙の精神の源流は関東に尚武の気風をもって鳴った当地に移って三百三十年の記念すべき年にこの銅像を建てるものである。
昭和四十七年十二月十四日 大石内蔵助良雄銅像建立委員会

『笠間城跡案内板』ほか

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資料
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私見
広い城主下屋敷跡 すぐに削平された郭面に出ます 櫓台状の土塁  笠間城跡である佐白山の西麓、といっても高台になった公園まで車であがってくることができました。笠間城主下屋敷の跡を示す石碑や大石内蔵助の銅像が置かれています。こんなところで出会えるなんて思ってもみませんでした。まぁこの辺は適当に切り上げて、いざ登城です。元々中世に創られた笠間城は山城だったのですが、近世になり改変が加えられ、また麓にも広がりをもつ平山城の様相を持つようになったのですね。
 登城道は階段状になっていて、また足元の草もありませんので苦労なく登っていくことができます。途中で車道と合流しましたけどまだ上にまで車で行けたの?いや、まぁいいでしょう。本丸はすぐ上にありました。
 いきなり視界が開けるようになると明らかにそこは城跡でした。宍ヶ崎櫓跡からまっすぐ進むと八幡台櫓に続く土塁がよく残っています。またそこから見下ろす本丸も広大な面積であったことが分りますね。ここから北へ降りていくと段々と郭が続くのですが、後世の破壊により形状は変わってしまっているようです。
天守櫓への石段 お堂の下に矢穴石  そしてやはり笠間城の目玉は天守郭ですね。最も高地に位置する場所にありながら見事な石垣を持つ関東でも珍しいお城です。本丸との間の空堀、土橋を抜けると立派な石段が整備されているのはおそらく現在天守郭に建っている佐志能神社の建設に伴うものなのでしょうか。そして目の前には「笠間城天主跡」の石碑が!天主って安土城だけじゃなかったのですね(笑)。ま、それはさておき城の石垣も充分すぎるほどに分りますので自然とテンションが上がりまくりです。そして天守台も立派な石が使われているものですねぇ。それぞれ矢穴がくっきりと刻み込まれています。残念ながらその上に乗っているのは天守ではありませんが、当時の資材を転用したものであるとか。
 さらに天守台の奥に行くと、巨大な岩がごろごろしてました。まるで巨石を祀る山岳信仰のような印象も受けますが、これだけの石を有しているからこそ石垣のお城ができたのですね。
 そして最後に忘れてはいけないのが、下山したあと真浄寺に向いましょう。ここには笠間城八幡台櫓が移築されているのです。お寺には似つかわしくない立派な櫓ですねぇ。貴重な遺構です。大事にしていっていただきたい。
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