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小田城跡
登城日:(2003.05.05)
所在地: つくば市小田
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史 小田城址碑  小田城は、十二世紀末に八田知家によって築かれた。知家は常陸国の守護となり、建久四年(1193)には多気義幹を亡ぼし、常陸国南部に勢力を広めた。四代時知に至り小田氏を名乗るようになる。鎌倉幕府が亡びると、七代の治久は新政府に参加し、南朝に味方した。治久は延元三年(1338)に北畠親房を小田城に迎え、関東における南朝の中心となって活躍した。親房は城中で「神皇正統記」「職原抄」を執筆した。しかし高師冬に包囲され、翌年に治久は師冬に降り、親房は関城に移った。
 戦国時代になると、小田氏は佐竹氏、結城氏に攻められ、小田城の激しい争奪戦が続いた。小田氏治は永禄十二年(1569)の手這坂の合戦に敗れて土浦に逃げた。佐竹氏は梶原政景を小田城代として守らせた。政景によって小田城は大規模に改修された。慶長七年(1602)に佐竹氏は秋田に国替えされて廃城になった。
小田城堀跡  小田城は、本丸を中心に三重の掘と土塁に囲まれた平城で、約二十一ヘクタールに及ぶ。本丸部分の約二ヘクタール程を八田氏の居館として出発し、次第に拡大強化された。南北朝に入ってから、居館から防御のための城郭へと転化した。戦国期の度重なる戦乱の中で戦闘用に強化された。更に梶原政景によって最終的に改修され、現在知り得る姿になって完成する。
 この城は平城として長所を十分発揮して巧妙に設計されている。本丸と各郭は深い掘と高い土塁で囲まれ、重要な出入口には馬出しを設けて、直接進入ができないようにしてある。郭は堀によって隔てられ、橋で結ばれている。郭は外部になるにつれて広くなるが、その中に堀や土塁を設けて、郭内の自由な移動を妨げている。郭群の外を北から東に囲む最外部は城下町をなし、その外も堀と土塁で囲まれている。

『小田城跡案内板』より

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資料  

私見 小田城土塁跡  小田城は国の指定史跡としてよく整備、保存されています。が、私にとって一番目立っていると感じましたのが城内を斜めに貫通していますサイクリングロードでした。関東鉄道の廃線跡だそうですが、私がいる間にも何人もの方があたりまえのように自転車で城内を滑走していました。国の指定史跡の真ん中をこんなことしてていいのか?と驚かされました。
 この小田城の現状は本丸跡と、その周りにある広い堀、そして高い土塁が実に見事なものです。まわりの水田や隣接する川もかつては城の水堀として機能していたことと無関係ではなかったものと思われます。「涼台」の上に立ち、周囲に広がる遺構や、自転車で行き交う人々を見比べつつ、はるかかなたへ思いを馳せるしかできない私でした。(^^;
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