Check |
寺中台場跡登城日:(2006.05.05) 所在地: 金沢市寺中町、普正寺町 |
歴史 |
この土塁は幕末の慶応二年(1866)黒船来航に備え、城下町防衛のため、宮腰(金石)台場・畝田台場とともに、加賀藩が築いた寺中の御台場を部分復元したものです。 御台場は寺中神主の屋敷跡に築かれ、内に御筒蔵を配し、前面に堀をめぐらしていました。当時の御台場は皆海岸に築かれていますが、ここでは畝田台場(全長約240メートル)と同様に内陸に設けられています。それは長州の下関事件など外国艦隊との装備の差を考慮し、上陸後の対応を図ったものと考えられます。 土塁の全長約80メートル(内約17メートルを復元)、大砲は西方約700メートルの犀川河口付近に向けて築かれています。 平面図は当時の藩の大砲方鹿田文平の原図(金沢市鹿田啓介氏蔵)にもとづくものです。 『寺中台場跡案内板』より
|
資料 |
私見 |
寺中台場は、金沢藩が慶応二年に築造したもので現在は大野湊神社脇の緑地公園に整備されています。なんで部分的に復元しているのか不明ですが、それでも全くなにもないよりは復元土塁があるだけで、雰囲気がでますね。 文久三年(1863)アメリカ商船やフランス艦船、オランダ艦などに砲撃を行った長州藩は、列強の猛烈な反撃を受け、藩内の軍艦は撃沈され、また亀山砲台や前田、壇ノ浦砲台なども破壊されて上陸されての銃撃戦となりました。そうした下関事件の反省を踏まえて内陸に設置された台場ということですが、それでもこの絵図にある台場でどれだけ有効に機能するのかなと思ってしまいます。なおちなみに金沢市内には寺中台場のほかに大野台場、宮腰台場、畝田台場などが築造されました。
|