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今和泉麓跡登城日:(2009.03.19) 所在地: 指宿市岩本、市立今和泉小学校 |
歴史 | 今和泉小学校は、今和泉島津家の屋敷(領主仮屋)があったところです。 今和泉島津家とは、延享元年(1744)に、第5代薩摩藩藩主島津継豊(島津家22代)が弟の島津忠郷に、長く絶えていた和泉家を再興させた家のことです。その領地は今和泉郷と呼ばれ、現在の岩本・小牧・新西方の一部・池田・仙田からなり、1万5千石の石高がありました。 今和泉島津家は、重富家・加治木家・垂水家とともに、「一門家」と呼ばれる藩最高の家柄でした。 今和泉島津家第5代忠剛の娘一子(於一)は、嘉永六年(1853)に第11代薩摩藩藩主島津斉彬(島津家28代)の養女になり、名を篤姫に改めました。そして、安政三年(1856)、第13代将軍徳川家定に嫁ぎ、家定が亡くなった後は、天璋院と名乗り、幕末から明治の動乱の時期に、徳川家の存続に尽力しました。 現在、当時をしのばせるものとして、今和泉島津家伝来の手水鉢や井戸、隼人松原や領主仮屋跡の石垣が残っています。また、ここから東西約300メートルのところに、今和泉島津家の墓地があります。 篤姫ゆかりの地今和泉。この地は今和泉島津家の別邸があったところです。於一(篤姫)が、幼少の頃遊んだ隼人松原海岸が別邸前に広がり、錦江湾の奥には雄大な桜島をみることができます。 また、樹齢300年以上といわれる老松も4本未だ衰えをみせず、今和泉の地を見守っています。於一もおそらく、この老松で遊び、また桜島をみていたことでしょう。 篤姫観光ガイド会が作成した「ガイドブック」の表紙にもこの老松が取り上げられ、松と松の間に見える桜島の光景は、人気を呼んでいます。 『今和泉麓跡案内板』より
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資料 |
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私見 |
2008年の大河ドラマの影響が大きかったのだと思うのですが、指宿に近づいていくと篤姫をPRする幟や看板が目についてきました。そういえばここには島津家の外城の1つ、今和泉麓があったんだと気づき、立ち寄ることにしました。現在は今和泉小学校となってしまっており、校内に残る遺構(井戸など)は未確認ですが、海側に回ってみますと往時のものでしょうか、石垣が見られます。思いのほか海が近くて驚きでしたが、船を使っていた痕跡を探そうとしてもよかったなぁとちょっと残念な思いでした。 外城(麓)がまだどういう状態であったのかをイメージできていませんでしたので、コメントが難しいのですがやはり案内板にあるように屋敷跡といった見方をしていればいいのでしょうか?ふらっと旅行のついでに訪れる場所にしてはちょっとヘビーですね(行くだけなら簡単ですが)。
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