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鹿児島城跡登城日:(2009.03.20) 所在地: 鹿児島市城山町 |
歴史 | ![]() ![]() ![]() 1601年(慶長六年)島津家18代家久が、関ヶ原合戦の後、上山城(城山)の補修と麓の居館づくりを思い立ち、父義弘のここは海に近すぎて危ないという反対を押し切って着工します。家久はこの地を政治・経済の中心地として城下町の建設を始めたのです。まず居館を築き、その周辺に家臣の屋敷を移し、1606年(慶長十一年)城の前の橋が完成したとされています。 城といっても本丸、二の丸、下屋敷が並び、天守閣や層楼のない屋形づくりでした。これは、「城をもって守りと成さず、人をもって城と成す」という薩摩藩流の思想によるもので、藩内の各所には兵農一致の郷士団が守る外城がめぐらされていました。 城下は鶴丸城を中心に武家屋敷、その外側に上町6町、下町12町、そして西田町4町が設けられ、5000人余りの町人が集められましたが、圧倒的に武士の多い城下町だったようです。 維新後は、熊本鎮台の分営として使われ、1873年(明治六年)炎上。残されたのは城壁と擬宝珠つきの石橋だけとなりました。 『鹿児島城跡案内板』より
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資料 |
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私見 | ![]() ![]() ![]() とりあえずは生々しい戦禍の跡を示す石垣や、北東隅にある鬼門除けの切り欠けを抑えて、あとは上山城から見下ろせばOKなのではないでしょうか。それにしても「鶴が翼を広げたような地形」であることから名づけられた鶴丸城という別名、現在はとてもそうは見えませんね。なんかそれが一番もやもやしてます(^^;。
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