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天保山台場

天保山台場跡


登城日:(2009.03.20)
所在地: 鹿児島市天保山町、天保山公園
 
【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
当時のものか石垣も見られます 天保山台場の土塁 ◆当時の日本の最強軍備でイギリスに挑む
 「撃てエー」天保山砲台什長・鎌田市兵衛の合図で号砲が轟き、錦江湾を威圧していたイギリス艦隊との間に戦いが開始されました。
 1863年(文久三年)7月2日(太陽歴8月15日)正午に始まった砲撃戦は、薩軍の必死の戦いで、イギリス側にも大きな損害を与えましたが、わずか3時間で城下は壊滅的な打撃をうけ、最新式アームストロング砲の威力を思い知らされたのです。
 天保山砲台は、島津家27代藩主斉興が緊張感高まる対外情勢に備えて着手、1850年(嘉永三年)に竣工しました。さらに、後を継いだ斉彬も藩の沿岸各所に砲台を築造、大砲を集成館で作らせ、海防にあてたのです。天保山で行われた城下士全体の連合調練を、斉彬自らが閲兵するほど、熱心に取り組んだと伝えられています。
 薩英戦争で海外の先進技術に目覚めた薩摩藩は、その後イギリスへの留学生派遣を行うなど、西洋技術の吸収につとめました。当時の砲台のうち、この天保山と祇園之洲に砲台跡があります。

『天保山台場跡案内板』より

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資料
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私見
海に向かって弧をえがくように土塁が残ります 天保山台場の土塁  天保山(砂揚場)台場は、鹿児島藩が沿岸に築造した砲台場の1つです。鹿児島藩内で渡来した外国船との事件は文政七年(1824)の宝島上陸事件や、天保八年(1837)のモリソン号砲撃事件があり、他藩と比較して海外からの脅威が緊迫していました。その為ペリー来訪の頃までには城下のものを除いて、沿岸台場の築造を完了させてしまっていました。その数は40を越えますのですさまじいですね。
 薩英戦争の際に他の台場に先駆けてここ天保山台場の大砲が口火を切ったそうですが、現在はマンションが建ってしまい、せっかくの遺構も海が見えづらい状況では半減です。現在は公園の端に桜島の方へ突出したような格好で土塁や一部石垣が見られます(これは当時のものですよねぇ・・)。ここに60ポンド砲3門、18ポンド砲7門が火を噴いたのですね。数少ない実戦を経験した台場はぜひ見晴らしのいい海を見ながら雰囲気を味わいたかったものです(^^;。
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